1871年にフランスに帰国し、アカデミー会員になったオマール公は、コレクション獲得を続けた。1876年、オマール公は、サザランド公爵のもとで、アレクサンドル・ルノワールによって収集されロンドンのスタフォード・ハウスに保存されていたフランス人の肖像画コレクションを買い上げる。つまり、フランソワ・クルーエ、コルネイユ・ド・リヨン、ピエール・ミニャール、そしてフィリップ・ド・シャンパーニュのものである。三年後には、イタリア初期ルネサンスの諸作品やプッサン一点、そしてフランソワ・ジェラールやアングルの作品群を含むフレデリック・レゼのコレクションを買い上げた。1881年は、クルーエとカーリスルに当時帰属されていたカトリーヌ・ド・メディシスのコレクション由来の311点の肖像画の番だった。その後は、さらに規則的に購入が行われるようになる。1885年には《三美神》、1890年にはコローの《田園の奏楽》、1891年にはジャン・フーケ作の《エティエンヌ・シュヴァリエの時祷書》からの40葉の写本抜粋、1892年には、フィリッピーノ・リッピの《アハシュエロス王に選ばれるエステル》である[4]。
展示ケースの改善大広間中央にあるポール・デュボワ作のオマール公胸像彫刻
1875年に、オマール公は建築家オノレ・ドメ(Honore Daumet、 1826-1911)とともに、フランス革命の後に破壊されて以来、更地になっていた台地に、グラン・シャトー(城館)を再建するプロジェクトを行うこととした。それ以来、オマール公は、自身の居城と客間に加えて、彼が収集したコレクションを収蔵し展示するためのギャラリーを構想するようになる。とりわけ、エクアン城に由来するプシュケの神話のステンドグラスを展示するためのガラスのはまった回廊が構想された。この大仕事は1882年に完成し、1885年には内部も整備される。建築家ドメは「サンチュアリオ」やトリビューナのような小部屋を重視し、自然光で照らした。内部装飾には、当時の有名な芸術家たちを起用した。画家ポール・ボードリー、彫刻家アンリ・シャピュ、ロラン・マルクスト、ジョルジュ・ガルデ、金細工師のエミール・フロマン=ムーリスなどである。1886年から1889年にかけての二度目の亡命の際には、オマール公は母屋を美術館に、劇場を図書室に再建した[5]。オマール公は定期的に客を招いて、接待の際には城館を案内させコレクションを見せた。1872年から1897年に行われた再建の工事にかかった費用は推定で5,365,758.17フランといわれる[6]。
1878年3月より、オマール公は気候のよい時期、つまり6月1日から10月1日の間、毎週木曜と日曜に城を一般公開することを決める[7]。 1884年6月3日の遺言書において、直接の相続人がいなかったオマール公は、そのコレクションをシャンティイーのほかの領地とともにフランス学士院に遺贈した。彼自身もすでに、学士院に従属する二つのアカデミーの会員であった。1871年よりアカデミー・フランセーズ、1880年より芸術アカデミーの会員だったのだ。この遺贈は、彼にとってはコレクションの散逸を防ぐ手段である。当時のオワーズ県知事でその後外務大臣となる[:fr]
フランス学士院への寄付
寄贈以降の美術館のあゆみ入城門にはブルボン=コンデ家の紋章をかたどった美術館の看板が掲げられている。
ギュスターヴ・マコンの美術館
絵画コレクション
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より「El caballero de la Muerte(死の騎士)」
ジャン・フーケ
『聖母の死』 (エティエンヌ=シュバリエの時祷書)
ジャン・フーケ
『ソールの回心』
ピエロ・ディ・コジモ
『シモネッタ・ヴェスプッチの肖像』(1480年代)
サセッタ
『聖フランチェスコの清貧との結婚』
フランソワ・クルーエの素描『フランソワ2世の肖像』
ラファエロ・サンティ
『三美神』
ラファエロ・サンティ
『ロレートの聖母』
ニコラ・プッサン
『幼児虐殺』
グエルチーノ
『ピエタ』
アントワーヌ・ヴァトー
『キューピッドの弓矢を取り上げるヴィーナス』
アントワーヌ・ヴァトー
『ラ・セレナータ (メズタン)』
ニコラ・ランクレ
『雅宴図』
ドミニク・アングル
『24歳の自画像』
ドミニク・アングル