コンスティチューション_(法学)
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Controlling the State: Constitutionalism from Ancient Athens to Today の著者であるスコット・ゴードンによれば、政治的な組織は次のようであるならば、コンスティチューション的である:少数派に属するものも含め、市民の自由と関係者の保護のための力のコントロールについての、制度化された仕組みを、その組織が含むこと[9]

ラテン語の ultra vires は、組織あるいは政治組織の公務員の活動であって、それら公務員のコンスティチューションあるいは法令による権威から外れることについて表している。例えば、学生会は学生に関係ない活動を行うことを、組織から禁止されることもある。もし学生会がそのような活動に関係するようになると、学生会の綱領に対して ultra vires とされ、綱領により誰もそれに従うように強制されない。主権国家のコンスティチューションでの例は、連邦国家の州政府があり、コンスティチューションにおいて連邦政府に排他的に列挙されている地域で、条約の批准のような立法活動を試みるものがある。Ultra vires は、そのような活動の強制停止の法的正当性を与える。おそらくは、司法審査による場合に司法組織の判断に助けられた人々の働きにより。

公務員による権利の侵害が ultra vires であるのは、コンスティチューション上の権利は政府の力を制限すること、であるからだろう。そのような公務員は本来持たない力を行使していることになる。

すべてではないが多くの近代国家では、コンスティチューションは通常の法令に優越する(#集成単一法典化されていないコンスティチューション参照)。そのような国家では公務員の活動がコンスティチューションに反する場合、つまりそれがコンスティチューションで政府に与えられた力でない場合、無効であり、無効化はab initio である。発見/評決の日からではなく、最初から。それは「法律」ではないが、しかし、もし成文法あるいは法令の条項であったなら、立法を採択する手続きに則って採択されるものであったろう。時には、問題は成文法がコンスティチューションによらない事ではなく、ある状況に適用することについてであり、法廷が、他にコンスティチューションに従った適用できる方法があり、その訴訟は許されないか正当ではないと、決定することがあるだろう。そのような場合には、その適用のみがコンスティチューションに反すると裁定されるだろう。歴史的に、そのような侵害の救済は、quo warranto のようなコモンローの令状の請願であった。
歴史と発展
近代以前
古代メソポタミアハンムラビ石碑。座っている太陽の神からバビロンの法を受け取るハンムラビ。

エルネスト・ド・サルゼ(英語版)により1877年にイラクで発掘された遺跡は、知られる限り最も早い法典の証拠であり、シュメール人の王ラガシュウルイニムギナにより紀元前2300年頃に公布された。おそらく政府の法の最も古い原型で、文書自体は発見されていない。しかし市民にいくつかの権利を許していたことが知られている。例えば、未亡人と孤児の税の軽減、金持ち高利貸しからの貧者の保護が、知られている。

その後、多くの政府が文書化された法である特別な法典で統治された。現存する最古の文書は、紀元前2050年頃のウルウル・ナンム法典と思われる。比較的知られた古代の法典としては、イシンリピト・イシュタルバビロニアハンムラビ法典、Hittite code、Assyrian code、モーセ法がある。アリストテレスによるコンスティチューションの体系分類。
古代ギリシア・ローマ

紀元前621年にドラコンは、アテナイ都市国家の冷酷な口述の法を集成単一法典化した。その法典は多くの罪の死刑を規定した(そのため今日では非常に厳しい規則のことを「ドラコニアン」と呼ぶ)。紀元前594年にアテネの統治者ソロンは、新しい「Solonian Constitution」を作った。労働者の負担を軽減し、支配者階級の身分は、家柄(貴族貴族政治)よりも富に基づく(金権政治/プルートクラシー)と定めた。アテネのクレイステネスは再度アテネのコンスティチューションを改革し、民主主義に基づくものにした。

アリストテレス(およそ紀元前350年頃)は、記録にある限り最初に、通常の法律とコンスティチューション的な法律とを正式に区別した一人である。コンスティチューションとコンスティチューション主義の概念を作り、コンスティチューション的政府の異なる形態の分類を試みた。アリストテレスはコンスティチューションの基本的な定義を「国家の中の官庁/任務の配置」であるとした。著作『アテナイ人の国制』、『政治学』、『ニコマコス倫理学』で、アテナイ、スパルタカルタゴなどの当時の国々の異なるコンスティチューション複数を調べている。アリストテレスは、彼が良いとしたもの、悪いとしたもの両方を分類し、結論として、最善のコンスティチューションは、君主制と貴族制と民主制の要素を混ぜたシステムであるとした。また市民を区別し、国家に参加する権利を持つ者と、持たない非市民および奴隷とに分けた。

古代ローマは紀元前450年に十二表法として最初にコンスティチューションを集成単一法典化した。それに一連の法律を追加をしつつ運用され、再びローマ法が一つの法典に構築されたのは紀元後438年のテオドシウス法典のことである。その後、東ローマ帝国の「ローマ法大全」(534年)はヨーロッパ全体に大きな影響をもたらした。それに続いて、東では740年のレオーン3世の Ecloga、878年のバシレイオス1世の Basilica がある。

アショーカ王碑文は紀元前3世紀の古代インドマウリヤ朝の王の統治についてコンスティチューション的な原則/主義を打ち立てた。古代に失われたコンスティチューション的な原則については、マヌ法典を参照。

中世前期西ローマ帝国が残した力の空白に置かれた多くのゲルマン民族は彼らの法律を集成単一法典化した。それらのゲルマン法の最初のものの一つは西ゴート族のCode of Euric(エウリック)である。続いてLex Burgundionumはゲルマンとローマ人に異なる規則を適用した。Pactus Alamannorumとフランク人サリカ法典も、500年過ぎ頃に書かれている。506年にはBreviarumまたはアラリック2世の "Lex Romana" (西ゴートの王)は、類別された初期のローマ法と合わせてCodex Theodosianusを統合採用した。643年にはランゴバルド人のEdictum Rothariが、654年にはLex Visigothorum、730年にはLex Alamannorum、785年頃にはLex Frisionumが現れている。

これらの大陸の法典はラテン語で書かれていた。一方、イングランドでアングロサクソン語で書かれたものは602年のエゼルベルトの法典が最初である。893年頃アルフレッド大王はこれに他のサクソンの法典を組み合わせて、モーセとキリスト教の規範を併せ、Doom book法典をイングランドの法典として作成した。

日本十七条憲法は604年に、伝えられるところでは聖徳太子により書かれた。これはアジアの政治史では最も早いコンスティチューションである。仏教の教えの影響を受けて、政府自体の組織よりも社会の倫理を中心に書かれているが、政府のコンスティチューションの非常に古い試みとして著名である。
中世

Constitution of MedinaはCharter of Medinaとも呼ばれるが、イスラム教の預言者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフにより起草された。それはムハンマドと、すべての主要部族およびヤスリブ族(後のマディーナ)、ムスリムユダヤ人異教徒 などの各集団との、公式な合意となっていた[10][11]。この文書は、マディーナにおけるAws (Aus)とKhazrajの氏族たちの間の争いを終わらせることを、明確に重視して、作成された。そのために、マディーナのムスリム、ユダヤ、異教徒の集団に多くの権利と義務を設け、彼らに一つの共同体のまとまりをもたらした。それがウンマである[12]。マディーナのコンスティチューションの正確な日付はいまだ論争になっているが、学者たちの一致した見解ではヒジュラ(622年)の少し後とされている[13]。これが実質的な最初のイスラム教の国家の設立となった。このコンスティチューションは、次のことを制定/確立した:治安、宗教の自由、マディーナの神聖な場所(暴力と武器を除き)あるいはハラームとしての役割、女性の安全、マディーナ内での安定した部族間の関係、争いの時に集団をサポートする税システム、外因的な政治的な同盟に対する限界、個人の保護を保障するシステム、争いを解決する司法システム、Blood money(部族間で同害報復(lex talionis)の代わりに個人を殺害する仕返し/償い)の仕返しの規制。


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