ラテン語の ultra vires は、組織あるいは政治組織の公務員の活動であって、それら公務員のコンスティチューションあるいは法令による権威から外れることについて表している。例えば、学生会は学生に関係ない活動を行うことを、組織から禁止されることもある。もし学生会がそのような活動に関係するようになると、学生会の綱領に対して ultra vires とされ、綱領により誰もそれに従うように強制されない。主権国家のコンスティチューションでの例は、連邦国家の州政府があり、コンスティチューションにおいて連邦政府に排他的に列挙されている地域で、条約の批准のような立法活動を試みるものがある。Ultra vires は、そのような活動の強制停止の法的正当性を与える。おそらくは、司法審査による場合に司法組織の判断に助けられた人々の働きにより。
公務員による権利の侵害が ultra vires であるのは、コンスティチューション上の権利は政府の力を制限すること、であるからだろう。そのような公務員は本来持たない力を行使していることになる。
すべてではないが多くの近代国家では、コンスティチューションは通常の法令に優越する(#集成単一法典化されていないコンスティチューション参照)。そのような国家では公務員の活動がコンスティチューションに反する場合、つまりそれがコンスティチューションで政府に与えられた力でない場合、無効であり、無効化はab initio である。発見/評決の日からではなく、最初から。それは「法律」ではないが、しかし、もし成文法あるいは法令の条項であったなら、立法を採択する手続きに則って採択されるものであったろう。時には、問題は成文法がコンスティチューションによらない事ではなく、ある状況に適用することについてであり、法廷が、他にコンスティチューションに従った適用できる方法があり、その訴訟は許されないか正当ではないと、決定することがあるだろう。そのような場合には、その適用のみがコンスティチューションに反すると裁定されるだろう。歴史的に、そのような侵害の救済は、quo warranto のようなコモンローの令状の請願であった。
歴史と発展
近代以前
古代メソポタミアハンムラビの石碑。座っている太陽の神からバビロンの法を受け取るハンムラビ。
エルネスト・ド・サルゼ(英語版)により1877年にイラクで発掘された遺跡は、知られる限り最も早い法典の証拠であり、シュメール人の王ラガシュのウルイニムギナにより紀元前2300年頃に公布された。おそらく政府の法の最も古い原型で、文書自体は発見されていない。しかし市民にいくつかの権利を許していたことが知られている。例えば、未亡人と孤児の税の軽減、金持ち高利貸しからの貧者の保護が、知られている。
その後、多くの政府が文書化された法である特別な法典で統治された。現存する最古の文書は、紀元前2050年頃のウルのウル・ナンム法典と思われる。比較的知られた古代の法典としては、イシンのリピト・イシュタル、バビロニアのハンムラビ法典、Hittite code、Assyrian code、モーセ法がある。アリストテレスによるコンスティチューションの体系分類。 紀元前621年にドラコンは、アテナイの都市国家の冷酷な口述の法を集成単一法典化した。その法典は多くの罪の死刑を規定した(そのため今日では非常に厳しい規則のことを「ドラコニアン」と呼ぶ)。紀元前594年にアテネの統治者ソロンは、新しい「Solonian Constitution
古代ギリシア・ローマ
アリストテレス(およそ紀元前350年頃)は、記録にある限り最初に、通常の法律とコンスティチューション的な法律とを正式に区別した一人である。コンスティチューションとコンスティチューション主義の概念を作り、コンスティチューション的政府の異なる形態の分類を試みた。アリストテレスはコンスティチューションの基本的な定義を「国家の中の官庁/任務の配置」であるとした。著作『アテナイ人の国制』、『政治学』、『ニコマコス倫理学』で、アテナイ、スパルタ、カルタゴなどの当時の国々の異なるコンスティチューション複数を調べている。アリストテレスは、彼が良いとしたもの、悪いとしたもの両方を分類し、結論として、最善のコンスティチューションは、君主制と貴族制と民主制の要素を混ぜたシステムであるとした。また市民を区別し、国家に参加する権利を持つ者と、持たない非市民および奴隷とに分けた。
古代ローマは紀元前450年に十二表法として最初にコンスティチューションを集成単一法典化した。それに一連の法律を追加をしつつ運用され、再びローマ法が一つの法典に構築されたのは紀元後438年のテオドシウス法典のことである。その後、東ローマ帝国の「ローマ法大全」(534年)はヨーロッパ全体に大きな影響をもたらした。それに続いて、東では740年のレオーン3世の Ecloga、878年のバシレイオス1世の Basilica がある。
アショーカ王碑文は紀元前3世紀の古代インドのマウリヤ朝の王の統治についてコンスティチューション的な原則/主義を打ち立てた。古代に失われたコンスティチューション的な原則については、マヌ法典を参照。
中世前期に西ローマ帝国が残した力の空白に置かれた多くのゲルマン民族は彼らの法律を集成単一法典化した。それらのゲルマン法の最初のものの一つは西ゴート族のCode of Euric(エウリック)である。続いてLex Burgundionumはゲルマンとローマ人に異なる規則を適用した。Pactus Alamannorumとフランク人のサリカ法典も、500年過ぎ頃に書かれている。506年にはBreviarumまたはアラリック2世の "Lex Romana" (西ゴートの王)は、類別された初期のローマ法と合わせてCodex Theodosianusを統合採用した。643年にはランゴバルド人のEdictum Rothariが、654年にはLex Visigothorum、730年にはLex Alamannorum、785年頃にはLex Frisionumが現れている。
これらの大陸の法典はラテン語で書かれていた。一方、イングランドでアングロサクソン語で書かれたものは602年のエゼルベルトの法典が最初である。893年頃アルフレッド大王はこれに他のサクソンの法典を組み合わせて、モーセとキリスト教の規範を併せ、Doom book法典をイングランドの法典として作成した。
日本の十七条憲法は604年に、伝えられるところでは聖徳太子により書かれた。これはアジアの政治史では最も早いコンスティチューションである。仏教の教えの影響を受けて、政府自体の組織よりも社会の倫理を中心に書かれているが、政府のコンスティチューションの非常に古い試みとして著名である。 Constitution of Medina
中世