"進んだ/啓蒙されたコンスティチューション"モデルと呼ばれるのは、啓蒙時代の哲学者であるトマス・ホッブズ、ジャン=ジャック・ルソー、ジョン・ロックなどにより展開された。このモデルは、コンスティチューション的な政府は安定で、適応的で、責任ある、開かれたものであるべきであり、また人々を代表すべきだ(つまり民主主義)と提案した[31]。
合衆国のコンスティチューションは1788年6月21日に承認された。英国のコンスティチューションのシステムに影響されたものであり、またネーデルラント連邦共和国の政治システムとポリュビオス、ロック、モンテスキューの著作、そのほかのものから影響を受けた。この文書は共和制およびこの後の集成単一法典化されたコンスティチューションの基準となった。May 3rd Constitution (painting by Jan Matejko, 1891). Polish King Stanis?aw August (left, in regal ermine-trimmed cloak), enters St. John's Cathedral, where Sejm deputies will swear to uphold the new Constitution; in background, Warsaw's Royal Castle, where the Constitution has just been adopted.
その次はポーランド・リトアニア共和国のコンスティチューションであり[32][33][34]、そしてフランスのコンスティチューション1791である。1812年3月19日、スペインのカディスに集まった議会でスペイン1812年コンスティチューションが承認された。そこは、半島戦争に対して、スペインの本土で唯一の安全な場所であった。このスペインのコンスティチューションは、他の多くの自由主義のコンスティチューションのモデルとして役立つものだった。具体的には、南ヨーロッパや ラテンアメリカの国々で、1820年自由主義革命による1822年のコンスティチューション、カルボナリ反乱(両シチリア王国)の間のイタリアの国々ノルウェーの1814年のコンスティチューション、1824年のメキシコのコンスティチューション[35]。
ブラジルでは、1824年のコンスティチューションは、独立後の政治体制として君主制に対するオプションを表現した。国の解放のリーダーは、ポルトガルの王子ペドロ、ポルトガル国王の年長の息子であった。彼は1822年に最初のブラジルの皇帝として即位した。ブラジルは1889年まではコンスティチューション的な君主制(立憲君主制)であったが、その後は共和制を採用した。
デンマークでは、ナポレオン戦争の結果、それまでの絶対君主制がノルウェーの占有を失い、別の君主制の国であるスウェーデンに移った。しかし、ノルウェーは、1814年に、根本的に民主的で自由主義のコンスティチューション
を吹き込むようにした。これは、合衆国憲法およびフランスの革命によるコンスティチューションの様々な面を採用している。同時に、伝統的な立憲君主制を、コンスティチューションの制限を受けつつ維持した。この点はスペインについても同じである。セルビア革命は、はじめに1811年コンスティチューションの原型を布告に導いた。そしてセルビアの完成したコンスティチューションは1835年にできた。
カナダのコンスティチューションが施工されたのは1867年7月1日であり、英国議会の北米立法による。カナダ東部の植民地(ケベック州)、カナダ西部の植民地(オンタリオ州)、 ノバスコシア州およびニューブランズウィック州は、前記立法により団結し、自治領となった。一世紀の後、前記立法はカナダ議会に権限が移り、Canadian Charter of Rights and Freedomsにより拡大した。以後、文書化されたコンスティチューション全体で、Constitution Acts, 1867 to 1982として知られるようになった。ちなみに元の前記立法は、それに対して、Constitution Act, 1867と呼ばれる[36]。
一方で、カナダのコンスティチューションには、コモンローおよび慣習に基づく、文書化されていない要素がある[37]。
カナダの作家で哲学者のJohn Ralston Saulはカナダのコンスティチューションについて、「使われているコンスティチューションでは、世界で2番目に古い」と記述している[38]。 部族の民が都市に住むようになり、そして国家を樹立し、多くが文書化されていない慣習で、国家の働きをするようになる。一方で、一部では、独裁的な、それどころか専制的な君主が単なる思いつきで統治する国も出てくる。そのような統治により一部の思想家は、次のような立場を取るようになった。すなわち、問題は政府組織や運営の企画/構想/設計ではなく、統治者の個性である、と。この視点は「哲学者の王」であるプラトンに見られる[39]。それより後のアリストテレス、キケロ、プルタルコスなどは、法的、歴史的な立場から政府の企画(/構想/設計)を審査した。ルネサンスの一連の政治哲学者は、専制君主の慣行の批判を含意した論述をした。そして、彼らの視点で、より効果的で公正な統治をもたらすコンスティチューションの企画(/計画/設計)の原理を特定することを追求した。その結果、ローマの国際公法(en:law of nations
コンスティチューションというものの設計計画の原則
イングランドにおけるこの論説の流れはイングランド内戦に始まり、クロムウェルの護民官政治、ホッブズ、Samuel Rutherford、Levellers、ジョン・ミルトン、 ジェームズ・ハリントンらにより論述された。やがて議論は、ロバート・フィルマーが君主の神性の権利を主張する一方、他方では、Henry Neville、James Tyrrell、 Algernon Sidney、ジョン・ロックらがおり、両者の間で議論が行われた。後者の主張から生まれた政府というものについての考え方では、政府が樹立される土台は、まず、自然の法に統治される自然国家であり、そして社会の国家、つまり社会契約あるいは協定により設立される国家となり、基となった自然法や社会法は国家が正式に設立されるときの土台となる。