コンスティチューション_(法学)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

Agreements and Constitutions of Laws and Freedoms of the Zaporizian Hostは、欧州で最初の、現代的な意味でのコンスティチューションである[30]。1710年にZaporozhian HostのヘトマンであるPylyp Orlykにより作成された。"Constitution of Pylyp Orlyk"として知られるこのコンスティチューションは、自由ヘーチマン国家を設立するために、カール12世の支援により書かれた。民主主義的な標準である、政府における、立法、行政、司法の各部門の権力分立を制定したことで、特筆に値する。これはモンテスキューの『法の精神』の出版に先立つものであった。このコンスティチューションは、ヘトマンの行政権限に制限を設けていた。そして民主的に選出されるコサック議会(総評議会)を制定した。しかし、このウクライナの独立国家の計画は実現せず、亡命生活の中で書かれたこのコンスティチューションは施行されることはなかった。この時期の欧州の他の例は、1755年のCorsican ConstitutionとSwedish Constitution of 1772がある。北米の英国の植民地は、13の独自の連合州となり、独自のコンスティチューションを1776年および1777年に採択した。独立戦争の最中であった。(そして後の連合規約 および アメリカ合衆国のコンスティチューションに先立つものであった。)マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランドは外れていた。マサチューセッツ(→マサチューセッツ州)自治領は、1780年に、そのコンスティチューションを採択した。これは米国で今でも施行されている最古のコンスティチューションである。その時点では、コネチカットとロードアイランドは、公式に旧植民地綱領により運営されていたが、それぞれ1818年と1843年に州のコンスティチューションを採択した。
民主的な憲法

"進んだ/啓蒙されたコンスティチューション"モデルと呼ばれるのは、啓蒙時代の哲学者であるトマス・ホッブズジャン=ジャック・ルソージョン・ロックなどにより展開された。このモデルは、コンスティチューション的な政府は安定で、適応的で、責任ある、開かれたものであるべきであり、また人々を代表すべきだ(つまり民主主義)と提案した[31]

合衆国のコンスティチューションは1788年6月21日に承認された。英国のコンスティチューションのシステムに影響されたものであり、またネーデルラント連邦共和国の政治システムとポリュビオス、ロック、モンテスキューの著作、そのほかのものから影響を受けた。この文書は共和制およびこの後の集成単一法典化されたコンスティチューションの基準となった。May 3rd Constitution (painting by Jan Matejko, 1891). Polish King Stanis?aw August (left, in regal ermine-trimmed cloak), enters St. John's Cathedral, where Sejm deputies will swear to uphold the new Constitution; in background, Warsaw's Royal Castle, where the Constitution has just been adopted.

その次はポーランド・リトアニア共和国コンスティチューションであり[32][33][34]、そしてフランスのコンスティチューション1791である。1812年3月19日、スペインのカディスに集まった議会スペイン1812年コンスティチューションが承認された。そこは、半島戦争に対して、スペインの本土で唯一の安全な場所であった。このスペインのコンスティチューションは、他の多くの自由主義のコンスティチューションのモデルとして役立つものだった。具体的には、南ヨーロッパラテンアメリカの国々で、1820年自由主義革命による1822年のコンスティチューション、カルボナリ反乱(両シチリア王国)の間のイタリアの国々ノルウェーの1814年のコンスティチューション、1824年のメキシコのコンスティチューション[35]

ブラジルでは、1824年のコンスティチューションは、独立後の政治体制として君主制に対するオプションを表現した。国の解放のリーダーは、ポルトガルの王子ペドロ、ポルトガル国王の年長の息子であった。彼は1822年に最初のブラジルの皇帝として即位した。ブラジルは1889年まではコンスティチューション的な君主制(立憲君主制)であったが、その後は共和制を採用した。

デンマークでは、ナポレオン戦争の結果、それまでの絶対君主制ノルウェーの占有を失い、別の君主制の国であるスウェーデンに移った。しかし、ノルウェーは、1814年に、根本的に民主的で自由主義のコンスティチューションを吹き込むようにした。これは、合衆国憲法およびフランスの革命によるコンスティチューションの様々な面を採用している。同時に、伝統的な立憲君主制を、コンスティチューションの制限を受けつつ維持した。この点はスペインについても同じである。

セルビア革命は、はじめに1811年コンスティチューションの原型を布告に導いた。そしてセルビアの完成したコンスティチューションは1835年にできた。

カナダのコンスティチューションが施工されたのは1867年7月1日であり、英国議会の北米立法による。カナダ東部の植民地(ケベック州)、カナダ西部の植民地(オンタリオ州)、 ノバスコシア州およびニューブランズウィック州は、前記立法により団結し、自治領となった。一世紀の後、前記立法はカナダ議会に権限が移り、Canadian Charter of Rights and Freedomsにより拡大した。以後、文書化されたコンスティチューション全体で、Constitution Acts, 1867 to 1982として知られるようになった。ちなみに元の前記立法は、それに対して、Constitution Act, 1867と呼ばれる[36]

一方で、カナダのコンスティチューションには、コモンローおよび慣習に基づく、文書化されていない要素がある[37]

カナダの作家で哲学者のJohn Ralston Saulはカナダのコンスティチューションについて、「使われているコンスティチューションでは、世界で2番目に古い」と記述している[38]
コンスティチューションというものの設計計画の原則

部族の民が都市に住むようになり、そして国家を樹立し、多くが文書化されていない慣習で、国家の働きをするようになる。一方で、一部では、独裁的な、それどころか専制的な君主が単なる思いつきで統治する国も出てくる。そのような統治により一部の思想家は、次のような立場を取るようになった。すなわち、問題は政府組織や運営の企画/構想/設計ではなく、統治者の個性である、と。この視点は「哲学者の王」であるプラトンに見られる[39]。それより後のアリストテレスキケロプルタルコスなどは、法的、歴史的な立場から政府の企画(/構想/設計)を審査した。ルネサンスの一連の政治哲学者は、専制君主の慣行の批判を含意した論述をした。そして、彼らの視点で、より効果的で公正な統治をもたらすコンスティチューションの企画(/計画/設計)の原理を特定することを追求した。その結果、ローマの国際公法(en:law of nations)の概念が復活した。また、それを国同士の関係に応用し、戦争状態を改善し起こりにくくするために、laws of war and peace[40] という慣習を打ち立てようとした。そのために、権威ある君主や他の官僚が、何を持ち、何を持たないかの考察が行われた。その権威の由来は何か、そしてその乱用の救済は何か、についても[41]

イングランドにおけるこの論説の流れはイングランド内戦に始まり、クロムウェルの護民官政治、ホッブズ、Samuel Rutherford、Levellers、ジョン・ミルトンジェームズ・ハリントンらにより論述された。やがて議論は、ロバート・フィルマーが君主の神性の権利を主張する一方、他方では、Henry Neville、James Tyrrell、 Algernon Sidney、ジョン・ロックらがおり、両者の間で議論が行われた。後者の主張から生まれた政府というものについての考え方では、政府が樹立される土台は、まず、自然の法に統治される自然国家であり、そして社会の国家、つまり社会契約あるいは協定により設立される国家となり、基となった自然法や社会法は国家が正式に設立されるときの土台となる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:114 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef