1222年にハンガリーの王アンドラーシュ2世は、Golden Bull of 1222を公布した。
1220年から1230年の間に、ザクセンの統治者アイケ・フォン・レプゴーは「ザクセンシュピーゲル」を編纂した。これは最高法規として、ドイツの一部で1900年までも使われていた。1998年にS. Kouyateは口述の慣習を、再編成した。彼によると、その慣習は14世紀のマリ帝国の憲章であって、Kouroukan Fougaと呼ばれていたとされる[18]。1240年頃、コプトのエジプトのキリスト教徒の著述家'Abul Fada'il Ibn al-'Assalは、アラビア語でFetha Negestを記述した。彼の法律の一部は十二使徒/ローマ教皇の文書とモーセ法から取られた。さらに一部は古い東ローマ帝国法典から取った。いくつかの歴史の記録によればこの法典はゲエズ語に翻訳され、1450年頃のZara Yaqobの治世にエチオピアまで入った。これが国/領域の最高法規として用いられた最古の記録は、1563年に始まるSarsa Dengelのときである。このFetha Negestは、最高法規としてエチオピアでは1931年まで残っていた。1931年に、近代的な形式のコンスティチューションが皇帝ハイレ・セラシエ1世により認められた。Golden Bull of 1356は、カール4世皇帝が率いてニュルンベルクで帝国議会により公布された布告である。神聖ローマ帝国のコンスティチューション構造であって400年以上にわたり続いた重要なものである。中国では、朱元璋(洪武帝が)「皇明祖訓」を作成し、また改良した。最初の版は1375年で、彼の死後、398年までに2回の改訂がなされた。これらの規則は、それから250年間、実に、明朝のコンスティチューションとして役立てられた。Third volume of the compilation of 1585
カタルーニャでは、法廷/王宮によりCatalan constitutionsが、1283年から1716年まで公布されていた。フェリペ5世がNueva Planta decrees(新国家基本法)を作り、歴史的な法律は用いられなくなった。これらのコンスティチューションは、通常王室が主導権を持って作られるものだったが、Catalan Courts(政策立案機関)の承諾採決を要した。中世における近代コンスティチューションの先祖と言える。これらの法律は、他の近代的なコンスティチューション同様に、他の法律に優越するものであり、王の単なる布告、勅令では否定できないものだった。
1392年、Carta de Loguはアルボレーア国(ジュディカート・ディ・アルボレーア)の法典として、エレノア裁判官(giudicessa Eleanor)により公布された。これは、イタリアのサルデーニャでは、1827年4月にカルロ・フェリーチェ・ディ・サヴォイアによる法律に取って代わられるまで、有効であった。サルデーニャの歴史において非常に重要なものであり、民事法(/私法)と刑事法を包含する、系統的で、一貫性のある、体系的な立法であった。 イロコイの大いなる平和の法は、イロコイ連邦のメンバーの部族代表者が、一部族の発議による討議を経ての全員の合意に基づいた意志決定を行う統治システムを制定した。部族代表者は、世襲で、成人の女性がその任に就く[19]。Donald Grinde[20] Bruce Johansen[21] ほか[22] などの歴史家は、このイロコイのコンスティチューションがアメリカ合衆国のコンスティチューションに影響を与えたと信じており、1988年にアメリカ合衆国議会の決議で認められた[23]。
イロコイの「大いなる平和の法」
近代的なコンスティチューションThe Bendery Constitution by Hetman Pylyp Orlyk.
現在でも主権国家の統治に使われている最古の文書は、サンマリノのものである[28]。Leges Statutae Republicae Sancti Mariniはラテン語で書かれており、6冊からなる。1冊目には62の条項があり、評議会、法廷、様々な行政官とそれに与えられる権限を定めている。2冊目以降には、刑事法、民事法、司法手続きと救済について書かれている。書かれたのは1600年で、1300年のStatuti Comunali (Town Statute/市民の法)に基づいている。Codex Justinianusの影響を受けており、現時点でも施行されている。1639年にコネチカット植民地でFundamental Ordersが採択された。これは北アメリカで最初のコンスティチューションであった。それ以降のコネチカットのコンスティチューションの基礎となったものであり、コネチカットが「コンスティチューションの州(Constitution State)」と呼ばれる理由となった。
清教徒革命(イングランド内戦)の後、オリバー・クロムウェルによりEnglish Protectorate(英国保護国)が設立された。そこで、詳細に文書化されたコンスティチューションが公布された。これは最初に近代国家で採択されたものである[29]。名称は統治章典であった。これは、議会が有効に統治出来なくなった後に、クロムウェルの権力の増大についての法的な理論的根拠を提供して、1653年から1657年までの短期間だけ存続したイングランド共和国の基礎法典となった。またこの法律では、21人のメンバーからなる国務会議(国家評議会)を設立し、その一方で行政の権力は護国卿という官職に与えていた。この官職は、終身であるが非世襲であった。このような法律であったが、広範に受け入れられることは難しかった。急進派からも保守派(王党派)からも拒否された。議会も、議会自体の権威の根拠と認めることを拒否した。結局、1657年3月に謙虚な請願と勧告に取って代わられたが、それもさらに寿命は短く、クロムウェルの死去と王政復古により終焉を迎えた。
Agreements and Constitutions of Laws and Freedoms of the Zaporizian Hostは、欧州で最初の、現代的な意味でのコンスティチューションである[30]。1710年にZaporozhian HostのヘトマンであるPylyp Orlykにより作成された。"Constitution of Pylyp Orlyk"として知られるこのコンスティチューションは、自由ヘーチマン国家を設立するために、カール12世の支援により書かれた。