コンスタンティン・フォン・ノイラート
[Wikipedia|▼Menu]
1919年にデンマーク公使、1921年から1930年までイタリア大使を務めた[1]。イタリア大使在任中にベニート・ムッソリーニファシズムに感銘を受けている。1930年から1932年まで駐英大使に就任[1]。貴族出身のノイラートはヒンデンブルク大統領のお気に入りで、1929年にグスタフ・シュトレーゼマン外相が急死したときはその後任に取りざたされたが、議会の支持を得られず沙汰やみとなった。

1932年6月2日大統領内閣として発足したフランツ・フォン・パーペン内閣で外務大臣に就任[1][4]。大統領ヒンデンブルクの強い要望を受けての就任だった[4]。ノイラートもそうだが、閣僚に貴族が多いため「男爵内閣」と揶揄された。1932年6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、ノイラートは、首相パーペン、蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルト(de)らとともに同会議に出席した[5]。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された[5][6]。首相パーペンと内閣の最大の実力者クルト・フォン・シュライヒャー国防相が対立を深めると1932年12月2日の閣議でノイラートは蔵相クロージクとともにシュライヒャー断固支持を表明し、パーペンの失脚に一役買った[7]。12月3日に成立したクルト・フォン・シュライヒャー内閣にも外相として留任した。シュライヒャー内閣は1933年1月28日に倒閣したが、その後を受けて1月30日に成立したアドルフ・ヒトラー内閣でも留任することになる。
ナチ党政権下1938年1月、ユーゴスラヴィア首相ミラン・ストヤディノヴィッチ(左)とドイツ外相ノイラート(右)。

1933年1月30日にアドルフ・ヒトラー内閣が成立した。ノイラートは引き続き外相を務めた。貴族出身かつ外務官僚として国際的知名度が高く、ヒンデンブルグのお気に入りだったノイラートは、ヒトラー・パーペンに次ぐ事実上の政権ナンバー3の地位にあり、パーペンやシャハトと並んで実務経験の乏しいヒトラー内閣に威信を与える役割を担っていた[8]

ヒトラーの指示を受けて1933年10月14日にドイツを国際連盟から脱退させた。代わってヒトラーはポーランドとの不可侵条約の締結を企図し、ノイラートにその交渉にあたらせた[9]。結果、1934年1月26日にはポーランドとの間に10年期限の不可侵条約が締結された[10]

しかし、次第にヒトラーの私的外交顧問であるヨアヒム・フォン・リッベントロップが頭角を現し、ノイラートの外交活動は制限を受ける事が多くなっていった。英独海軍協定(en)の交渉に当たってリッベントロップは艦船保有比率をドイツ35対イギリス100で交渉すべきと提案したが、ノイラートはそれではイギリスは応じないだろうと見て、もっと要求を下げるべきだと主張したが、ヒトラーはリッベントロップを支持した[11]。ヒトラーは1935年6月1日にリッベントロップをこの問題の全権大使に任じてイギリスとの交渉にあたらせた[12]。折しも5月2日に仏ソ相互援助条約が締結されていた事もあり、イギリス側がドイツのこの提案に応じて交渉は成功した。こうして1935年6月26日に英独海軍協定が締結された[13]。ノイラートの外務省の面目は丸つぶれとなった[12]。1936年3月7日にドイツ軍はラインラント進駐を行ったが、その事後収拾外交もリッベントロップが中心となって行った[14]

1937年にはナチ党に入党した。また同年9月には親衛隊(SS)名誉親衛隊中将として入隊した(1943年6月19日に親衛隊大将に昇進)[2]

だがその後ヒトラーの戦争計画に反対し、1938年2月4日に外相を解任。無任所大臣として閣内に留まったものの、外交政策は後任の外相であるリッベントロップが取り仕切り、完全に蚊帳の外に置かれてしまった。1941年、前列左からノイラート、コンスタンティン・ヒールルカール・ヘルマン・フランク

1939年ベーメン・メーレン保護領総督に就任し、第二次世界大戦中はチェコ人レジスタンス鎮圧などにあたった。ただ、ノイラートは全体的には穏健な統治をおこない、強権的統治を求めるヒトラーからは失望された[15]。しかし、ノイラートにとっては、戦後この統治方法が幸いする[15]。1941年には副総督職が新設され、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが副総督としてプラハに赴任してきた。ハイドリヒはチェコ全土に激しい弾圧をおこない、ノイラートは実権を喪失していった。ハイドリヒ暗殺後も後継の副総督となったクルト・ダリューゲ親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランク(後、ベーメン・メーレン保護領担当国務相)に実権を奪われた。さらに1943年8月24日には総督を辞職することとなり、前内相ヴィルヘルム・フリックと交代している。以降直接政治に関係することはなくなった。
ニュルンベルク裁判1945年、ニュルンベルク裁判。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:82 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef