コンスタンティン・パッツ
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クレムリンの要求により、パッツは一ヶ月以上にわたって様々な大統領令に署名させられ、これらの大統領令はエストニアをソビエト化した。大統領の地位を追われた後、7月には逮捕されロシアへ強制送還された。1956年、収容されていたカリーニン州の精神病院にて獄死。
前半生コンスタンティン・パッツとその家族、左から兄のニコライ、妹のマリアナ、父ヤコブ、弟のヴォルデマー、母ボルガ、そして弟のペーターとコンスタンティン

1874年2月23日、ロシア帝国のリヴォニア自治区パルヌ県(現在のエストニア共和国タフコランナ教区)に生まれる。地元の言い伝えによると、コンスタンティンは母ボルガが病院に間に合わなかった[4]ために、路傍の農園の納屋で生まれたという。正教会のタフコランナ教会にて受洗[5]

コンスタンティンの父、ヤコブ・パッツ(1842-1909)はヘイムテイル出身の大工であったが、地元豪族とのトラブルから転居を余儀なくされていた。母オルガ・パッツ(旧姓トゥマーノワ、1847-1914)は、ロシア人エストニア人を両親に持ち、父ヤコブもルター派教会から正教会へ改宗している。コンスタンティンと兄弟は正教会の厳格な伝統の中で成長した。

コンスタンティンはタフコランナ教会学校に入学する[4]。翌年、家族はパルヌ近郊のラエクラ区に引っ越し、コンスタンティンは教会学校でロシア語の講義を受ける。後に、1887年から1892年の間リガ神学校に学ぶが、聖職者にはならないと決心してからは、パルヌの高等学校に移った[6]

1894年から1898年にかけてパッツはタルトゥ大学法学部に学び、法学士の学位を得る。ほどなくしてオムスク第96ロシア歩兵連隊に徴兵され、旗手を務めた[6]。1900年、すでに政治家を志していたパッツはタルトゥに戻って学者になることを選ばず、首都タリンへと移った。
経歴
報道家として

タリンにて、パッツはヤーン・ポスカの法律事務所の助手として働き始める。しかし、この仕事はパッツを満足させることはできなかった[7]。一方、タルトゥではヤーン・トニッソンが国粋主義的新聞『ポスティメース(英語版)』を1891年、既に創刊していた。そこで、パッツも自らの新聞をタリンで立ち上げようと考えていた。ちょうどその頃、新聞記者のエドゥアルト・ヴィルデとアントン・ハンセン・タムサーレも同じく国粋主義の新聞を創刊しようとしていたが、は社会民主主義的な立場をとるロシア内務省は免許を交付しようとしなかった。そこで3人は協力し、パッツを国教である正教会と深い関係を持つ弁護士として担ぎ上げることで、免許を手に入れることに成功した[8]

ヴィルデたちや免許を交付した権力者らはパッツに、帝国に忠実であり、かつ正教徒エストニア人の団結を主張する新聞を書くことを期待していた。ところが、パッツは自由主義的な主張を持っていた。新聞『テタージャ』の初版は1901年10月23日発行されたが、程なくして、先んじて発刊していた『ポスティメース』ならびに主筆のトニッソンを相手にエストニアの将来像を巡って論争を繰り広げることになった。国家主義思想を掲げる『ポスティメース』に対して、『テタージャ』は経済活動の重要性を強調した。しかし、厳しい検閲によって、この事業はたちまち困難になっていった[8]
若き政治家

そこでパッツは、政治家となりバルト・ドイツ人が未だに支配している地方で権力を手に入れようと考えた。1904年、パッツはタリン市の相談役になる[6]と 、ポスカとともに、エストニア人から自由主義者のロシア人までを巻き込んだ選挙工作を行い、同年のタリン市議会選挙に辛くも当選、市議会議員となる。1905年には市長補佐に進み、同時に市議会の議長をも務めた。しかし、市議会での活発な活動のために、この頃の彼はほとんど新聞に割ける時間がなかった[4]。そのため、テタージャの実権はハンス・ポーゲルマン率いる革命派グループに移り、反政府的な記事を書いて大いに民衆を扇動した[8]

1905年の革命の時、パッツは既にバルト諸国の自治と民主化を訴える活動家となっていた[9] 。革命の高まりの中で、彼の新聞は発禁とされ、社員は逮捕されてしまった。パッツはこのことを事前に察知し、辛うじてスイスへと遁れ、そこでロシア帝国によって自身が死刑を宣告されたとの報に接した[4]コンスタンティン・パッツ少尉(1917年)

1906年、パッツはフィンランドの首都ヘルシンキへ移り、文筆業を継続した。彼の原稿の多くはエストニアにて匿名で出版された。また、市当局の土地改革に関する質問に助言を加えた。1908年、パッツはサンクトペテルブルクのロシア国境附近に位置する街・オリラ(英語版)に移る。ここで、彼はフィンランドに身を置きながら、スイスへ亡命した際に生き別れた家族との再会を果たした[4]

妻ヘルマの病が重くなってからは、パッツはもはやロシアが彼に死を望んでいないことを知り、1909年、少しばかりの代償を条件にエストニアに戻った。1910年2月、パッツはサンクトペテルブルクのクレスティ刑務所に収監される。同時に、パッツが薬を送り続けていたにもかかわらず、妻がスイスで結核により死亡した。収監中のパッツは外国語を学び、新聞に載せるべく論文を執筆した[4]。1911年5月25日、釈放される。このとき、エストニア州の知事がかねてから、1905年の行動を理由に彼をかの地へ戻さないよう要請していたこともあり[10]、エストニアとリヴォニアの知事から6年間の追放を宣告された。ところが最終的には、ポスカとの深い関係が彼を再びエストニアに呼び戻した[4]。パッツは改めて新聞を創刊し、『タリン・テタージャ』と名付けた。

1916年2月から、パッツはタリン市の将校となり、翌1917年にはエストニア軍人最高会議の議長に選出され、帝国軍のエストニア人部隊に協力の働きかけを行う。戦争の間も、パッツはエストニア人と自由主義を支持するバルト・ドイツ人資産家との連携を画策し続けた[4]
自治とドイツ軍による占領パッツはエストニア独立宣言を発布した中の一人であった

1917年、ドイツ軍がエストニアに進撃したが、パッツは徴兵を忌避することに成功した。二月革命以降、エストニアの支配権はロシア臨時政府が握っていたため、エストニア人はロシア帝国内での自治を追求していた。国内ではエストニアをそのまま自治区とするか、あるいは二つの自治区に分割するかの論争が持ち上がっていたが、パッツは一つの自治区とする側に立ち、分割を支持するトニッソンを破った。ほどなくペトログラードでエストニア人が蜂起したため、1917年4月12日、ついに臨時政府はエストニア自治区の設置を承認した。エストニア自治議会が選出されたとき、パッツは議員となり、しかも55議席のうち13を占めるエストニア祖国同盟を率いる立場となった。左右両翼が同数の議席を獲得し、議長の選出は難航した。中道右派のトニッソンの推薦により立候補したパッツは、当時無名であったアルター・バルナーの一票を除く全ての票を得て当選した。

パッツは最初、どの院内会派にも所属しないことにしていたが、最終的には最右翼の民主主義会派に所属した[11]。1917年10月12日には臨時政府の議長[12]、ヤーン・ラモットに取って代わる。十月革命の際は、ボリシェヴィキがエストニアの支配権を握ったため議会は解散させられてしまった。公文書の引き継ぎに失敗したため、パッツは三度逮捕され、最終的には地下活動へと潜行した[4]


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