コンスタンティノープルの陥落
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注釈^ 1412年 - 1453年5月29日または6月7日。兄弟姉妹にスレイマン・チェレビ(1423年 - 1437年。1433年に姉ファーティマと共にカイロに避難)、ファーティマ・シェフザーデ(1422年 - 1455年7月にカイロで死去。フンド・シェフザーデとも。マムルーク朝のスルタン2人(アシュラフ・バルスバーイ(1437年5月に結婚。1438年に死別)とザーヒル・ジャクマク。ジャクマク(1439年に結婚。1449年3月26日に疫病で死去した4人の息子あり(長男アフメドは7歳で死去)。1450年12月25日に離婚)。サヒブ・アル=フジュジャブ・バルスバイ・ブジャシと3度目の結婚)の妻)とカディヤ。Harbour of Eleutheriusに住んでいた、メフメト2世の祖父メフメト1世の長兄スレイマン・チェレビ(英語版)(1377年 - 1411年2月17日。バヤズィト1世の次男。弟ムーサ―との戦いに敗れて殺された。学者によっては彼を「スレイマン1世」と数え、オスマン帝国第10代スルタンを「スレイマン2世」としている。なお、第20代スルタン(第10代スルタンの昆孫)も「スレイマン」であるが、この観点から見れば、「スレイマン3世」となる。2人の妻がおり、1人目はフュレーン・ハトゥン(1403年に結婚。ザビア・パレオロギナ(イザベラ)とその夫イラリオ・ドリアの娘)である。母ザビアが東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの非嫡出子とはいえ娘である為、マヌエル2世パレオロゴスの孫娘の1人であり、パレオロゴス朝の血統に連なる。2人目はデスピナ・ハトゥン(1404年に結婚。マヌエル2世パレオロゴスの弟テオドロス1世パレオロゴスが名前が知られていない愛人との間に儲けた庶子)である)の孫でメフメト2世の20歳年長の又従兄(はとこ)にあたる。スレイマン・チェレビの長男シェフザーデ・オルハン・チェレビ(1395年 - 1429年。33歳?34歳没)とシェフザーデ・オルハン・チェレビの無名の妻(後に疎遠となり、1460年にカイロで死去)の息子で4人の息子(アリー・シャー、ジャハーン・シャー、ワリー・カーン、ブガ・カーン)の父親でもあった。オルハン王子の祖父スレイマン・チェレビには長男オルハン・チェレビ以外にも子2人がおり、次男シェフザーデ・メフメドシャー(ムハンマドとも。生年不明 - 1421年12月30日没。オルハン王子の父シェフザーデ・オルハン・チェレビは叔父ムーサ―もしくは同じく叔父のメフメト1世によって盲目となり、目が見えなくなった)と長女パシャメレク・ハトゥン(マリカとも。生没年不明。サンジャル・ベイという男性と結婚。子女の有無も不明)である。因みにスレイマン・チェレビの3人の子女はコンスタンティノープルで人質にとられた経歴を持つ。
^ この時の傷が元で陥落後に死亡。ヒオス島に埋葬される。コンスタンティノープル脱出の時期と状況については資料によって異なる。
^ しかし実際に目撃者がいても、この状況下で生きていられた可能性は低く、この逸話が事実であるか定かではない。
^ 「イスタンブール」という呼び名も当時から存在したが、オスマン語による正式名称は「コンスタンティニエ」であった。なお、公式に「イスタンブール」に改称されるのは1930年である。
^ キリスト教会からオスマン帝国によりモスクへ改修され、トルコ共和国が1935年に無宗教の博物館とした。

出典^ 呉茂一・高津春繁(訳者代表)『世界名詩集大成 @古代・中世編』平凡社、1960年、37-38頁が解説, 396-407頁が作品の訳、ともに梅田良忠による。
^ a b 世界文化遺産「アヤソフィア」宗教対立 揺れる融合の象徴/トルコ、モスクに戻す動き ギリシャ反発『朝日新聞』朝刊2020年6月14日(国際面)同日閲覧
^中日新聞』2020年7月12日 国際面(11版4面)
^ a b “ ⇒Byzantine-Ottoman Wars: Fall of Constantinople and spurring "age of discovery"”. 2020年12月26日閲覧。
^ “The Fall of Constantinople: A Turning Point in Modern History?”. 2020年12月26日閲覧。
^ a b “Fall of Constantinople”. Encyclopadia Britannica. 2020年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月2日閲覧。

関連書籍「東ローマ帝国#参考文献」も参照

井上浩一『生き残った帝国 ビザンティン』講談社学術文庫、2008年(初刊:講談社現代新書、1990年)

塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫、改版2009年(初刊:新潮社、1983年)- 小説のため脚色がある。

鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年

野中恵子『寛容なる都 コンスタンティノープルとイスタンブール』春秋社、2008年

林佳世子『オスマン帝国 500年の平和』講談社〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫、2016年

スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』護雅夫訳、みすず書房、新装版1998年

ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国の最期』井上浩一訳、白水社、2013年

関連項目

イスタンブール

コンスタンティノープル

パレオロゴス王朝

フィレンツェ公会議

アヤソフィア

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、コンスタンティノープルの陥落に関連するメディアがあります。

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