コンスタンチン・スタニスラフスキー
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スタニスラフスキーは体験の芸術を重視しスタニスラフスキー・システムを作り上げている。もっとも表示を必要としない、としたわけでないため演じることを忘れるわけではない。表示の芸術のように役を演じる俳優の代表例として、フランスのブノワ・コンスタン・コクラン(1841?1909)[注釈 18]や18世紀フランスの女優ル・クレロンがいる。体験の芸術のように役になりきる俳優としてはスタニスラフスキー以外に、19世紀イギリスのヘンリー・アーヴィングや18世紀フランスの女優デュメニル、イタリアの老トマゾ・サルヴィーニ(1829?1915)[注釈 19]がいる。
家族

合計12人の兄弟がおり、同じく演劇にかかわった兄弟がいる。

兄:ヴラディミール・セルゲーヴィチ・アレクセーイェフ(Владимир Сергеевич Алексеев):演出家、脚本家

妹:ジナイーダ・セルゲーヴナ・ソコロヴァ(Зинаида Сергеевна Соколова):女優、演出家。
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国功労芸術家

妻:マリヤ・ペトローヴナ・リリナ(Мария Петровна Лилина):1888年10月に設立した文芸協会で、シラー「たくみと恋」でスタニスラフスキーの相手役、1889年に結婚

著書(日本語訳)

『俳優修業』山田肇訳、創元社、1951年

未來社(第1・2部)、1954-1956年、新版1975年、1997年


『俳優と劇場の倫理』 土方与志訳、未來社、1952年

『身体的行動』 土方与志訳、未來社、1953年

『劇場』 馬上義太郎訳、早川書房、1953年[注釈 20]

『芸術におけるわが生涯』 蔵原惟人訳、岩波文庫(全3巻)、1953-1956年

江川卓の改訳版、岩波書店(全2巻)、1983年

蔵原惟人・江川卓訳、岩波文庫(全3巻)、2008年
スタニスラフスキー自伝。裕福な家庭に生まれ、芸術に親しんだ幼少期から、演劇に情熱を燃やす青年期、スタニスラフスキー・システムの確立、劇団の分裂、ロシア革命の勃発・ソ連の成立という激動の時代を描いている。

『舞台の第一歩』 倉橋健訳、未來社、1954年

『演出者と俳優』 牧原純訳、未來社、1955年

『俳優の仕事』 千田是也訳、理論社(全4巻)、1968-1971年

『俳優の仕事 第一部 俳優教育システム』 堀江新二・岩田貴・浦雅春安達紀子訳、未來社、2008-2009年

『俳優の仕事 第二部 俳優教育システム』 堀江新二・岩田貴・安達紀子訳

『俳優の仕事 第三部 俳優の役に対する仕事』 堀江新二・岩田貴・安達紀子訳スタニスラフスキー・システムの理論書。山田訳『俳優修業』は、英訳版からの重訳。上記はロシア語原版から新訳。山田訳に未収録のエピソード、原註、草稿も収録。

関連文献

リー・ストラスバーグ『メソードへの道』(米村晰訳、劇書房、1989年)

ジーン・ベネディティ『スタニスラフスキー伝 1863‐1938』(高山図南雄、高橋英子訳、晶文社、1997年)

同『演技 創造の実際 スタニスラフスキーと俳優』(高山図南雄、高橋英子訳、晩成書房、2001年)

同『スタニスラフスキー入門』(松本永実子訳、而立書房、2008年)

堀江新二・ナタリヤ・スタローセリスカヤ・松川直子・東山咲子共著『ロシア演劇の魅力』(東洋書店、2002年)

セルゲイ・チェルカッスキー『スタニスラフスキーとヨーガ』(堀江新二訳、未来社、2015年)

レオニード・アニシモフ『スタニスラフスキーへの道』 (遠坂創三、上世博及訳、未知谷、2016年)

ニック・ウォーラル『モスクワ芸術座』(佐藤正紀訳、而立書房、2006年)

関連項目

ジョシュア・ローガン

ステラ・アドラー

アクターズ・スタジオ

参考文献

『スタニスラーフスキイ自伝』
島田謹二訳、岩波文庫(上巻のみ)、1942年。英訳版からの重訳

スタニスラフスキイ『俳優修業』 山田肇訳、道統社、1943年。英訳版からの重訳

山田肇『スタニスラフスキイ』 弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年

脚注
注釈^ 自分と他人の演技感情の矛盾や解決法から逃げず、ノートを取り続けた。また帝室小劇場(マールイ劇場)など劇場に良く通った。
^ 活人画『四季』の中の「冬」を演じた。『スタニスラーフスキイ自伝』上巻 島田謹二訳、岩波文庫、1942年 p.38
^ サッバ・チモフェーエヴィチ・モロゾフ。文学や演劇の愛好家。芸術座支援のため、劇場を建設、さらに創設基金1万ルーブリを出資。芸術座は、これをもとに幾人かの株主を得て、2万8千ルーブリを確保した。モスクワ屈指の製造業者すなわち資本家であって劇場の赤字をすべて払うなどした。また、化学者でありロシア革命運動に共感する。照明操作監督を引き受けるなど演劇にも積極的であった。革命運動にも相当の資金を提供したが、1905年、第一革命が起り、続いて反動が襲った時期に、ニースで自殺した。山田肇著『スタニスラフスキイ』弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年 p.25
^ スタニスラフスキーの父も家庭教師も参加した。『スタニスラーフスキイ自伝』上巻 島田謹二訳、岩波文庫、1942年 p.95
^ ヴォードヴィルやオペレッタからドラマ、オペラまで上演した。山田肇著『スタニスラフスキイ』弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年 p.4
^ ギムナジヤはロシアの中学校。該当の教師は、スイス生まれのスポーツマンであるヴァンサン。体操家で、撃剣家で、馬術家。ギムナジヤ入学が、徴兵免除と相応の学問上の資格を得る必要を伴っていたことが、ついにスタニスラフスキーの母の反対を覆した。スタニスラフスキー著『芸術におけるわが生涯』上巻、蔵原惟人、江川卓共訳、岩波文庫、2008年 pp.76-77
^ 芸術座創立後も1917年の十月革命の前後まで家業に従った。山田肇著『スタニスラフスキイ』弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年 p.3
^ 帝室小劇場「シェープキンの家」によって創立された学校。シェープキンの女弟子で、以前の帝室劇場演劇学校を出た有能な女優の指導下に設けられた。『スタニスラーフスキイ自伝』上巻 島田謹二訳、岩波文庫、1942年 pp.132-135、スタニスラフスキー著『芸術におけるわが生涯』上巻、蔵原惟人、江川卓共訳、岩波文庫、2008年 p.155
^ 女優の息子とスタニスラフスキーは友達であった。『スタニスラーフスキイ自伝』上巻 島田謹二訳、岩波文庫、1942年 p.133
^ 芸術と文学の会。フェドートフ、テノール歌手フョードル・コミサルジェフスキーとともにアマチュア俳優が集結した劇団を作り、賭博禁制のクラブを設け、モスクワ中の芸術家が所属する団体を発会した。山田肇著『スタニスラフスキイ』弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年 pp.4-14
^ アレクセーイェフ一座で活躍した頃、スタニスラフスキーはコミサルジェフスキーから声楽の稽古を付けてもらい、稽古のあとには雑談する仲となっていた。『スタニスラーフスキイ自伝』上巻 島田謹二訳、岩波文庫、1942年 pp.194-195
^ 芸術文学協会の劇場は、『ジョルジュ・ダンダン』とプーシキン作『けちな騎士』の上演から開始された。いずれもフェドートフによる演出。スタニスラフスキーは前者のソタンヴィル及び後者の騎士を演じた。『スタニスラーフスキイ自伝』上巻 島田謹二訳、岩波文庫、1942年 pp.220-221、山田肇著『スタニスラフスキイ』弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年 p.6
^ ザクセン・マイニンゲン一座。1860年代の終わりにザクセン・マイニンゲン公ゲオルグにより作られた劇団。演出家クロネックが長。1885年に訪露した。スタニスラフスキー著『芸術におけるわが生涯』上巻、蔵原惟人、江川卓共訳、岩波文庫、2008年 p.304、p.359
^ 1897年初夏、ダンチェンコはスタニスラフスキーあて「あなたの興味を惹くかも知れない問題について話がしたい」という趣旨の手紙を送り、スタニスラフスキーは早速、日時と場所を指定する電報を返した。該当の「問題」とは、二人が協力し、芸術文学協会の俊秀とダンチェンコ門下の高足とを結束し、これを中心として、それにモスクワ、ペテルブルクその他の職業俳優中、選ばれた者を加えて、新しい劇団を結成するという提案であった。山田肇著『スタニスラフスキイ』弘文堂〈アテネ文庫174〉、1951年 p.14、pp.20-21


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