コンスタンチノープル
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^ ベルナール・レミィ(#レミィ2010>p67)によると、ディオクレティアヌス以来財務官は「元老院の息子が二十五歳(?)で就任するだけのものとなり、もはや元老院への加入を認めるものではなくなったように思われる」とし、法務官は、「首都担当法務官と後見担当法務官の二つのポストだけしか残されなかった」としている
^ 英語版en:Praefectus urbiの記事に出典なしで記載されているため、要出典。なお、5世紀初頭の史料ノティティア・ディグニタートゥムにはコンスタンティノープル長官(Praefectus urbis Constantinopolitanae)が登場し、ローマ市長官と同格の順位に記載されている
^ 「最も光輝ある者」を意味する称号。後述するクラリの最上級。
^ 「光り輝いた」という意味の形容詞。クラリッシムスの原級。
^ 五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と記している(井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』1990年p71)
^ スペインコルドバはコンスタンティノープルに匹敵する大都市であったが、当時のコルドバはイスラム王朝後ウマイヤ朝の支配下にあって、ローマ帝国の都市ではなかった。

出典^ 『日本大百科全書』小学館、コンスタンティノープル
^ 尚樹1999、p27。
^ ジョーンズ2008、p.226。
^ a b 井上2008、pp.62-73
^ [コンスタンチノープル]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。
^ a b 南川2015、p.13
^ a b 井上2008、p.63
^ a b ランソン2012、p.138。
^ 南川2015、pp.15-16
^ 根津2008、p.7。
^ [ローマ史]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。
^ 井上2008、p.64
^ a b 井上1998、p111。
^ 南雲2018、p.150。
^ 井上2008、pp.72-73
^ Matt T. Rosenberg. “ ⇒Largest Cities Through History”. About.com. 2009年1月30日閲覧。
^ 世界の歴史4、p.382。
^ 南雲2018、pp.164-166。
^ a b 南雲2018、p.171。

参考文献

A.H.M.ジョーンズ 著、戸田聡 訳『ヨーロッパの改宗 コンスタンティヌス〈大帝〉の生涯』教文館、2008年。
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