6世紀になると毎年5月11日が東ローマ帝国の重要な記念日として盛大な開都祭が行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した[15]。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはアンティオキアやアレクサンドリアにも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市[16]にまで成長した[17]。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていた。 ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラムのウマイヤ朝によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。674年から678年にはコンスタンティノープルはウマイヤ朝の海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。 717年から718年にはウマイヤ朝の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によって撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。 東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万?40万人を擁する大都会となった。当時の西ローマ帝国にはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず[注釈 7]、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。 11世紀後半になると、東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。 11世紀以降、イタリアの都市国家が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。 十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万?7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。 14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。
暗黒時代から再興へ(7世紀?8世紀)
黄金時代(9世紀?11世紀)
帝都陥落と荒廃(12世紀?13世紀)ギュスターヴ・ドレ(1832-1883), 『コンスタンティノープルに入城する十字軍』
終焉(14世紀?15世紀)「コンスタンティノープルの陥落」も参照