コンゴ共和国
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1905年には中央コンゴに改称されるとともに西部をガボン、北部をウバンギ・シャリおよびチャドに分割し、1910年にはガボンおよびウバンギ・シャリとの連合によって中部コンゴはフランス領赤道アフリカの一部となった[10]。中部コンゴと周辺植民地との境界はしばしば変更されたが、最終的に1946年にオートオゴウェ州がコンゴからガボンに帰属変更され、オゴウェ・コンゴ両河川の分水界が境界となることで領域が固定した[11]

フランスの植民地政策は1920年代までは特許会社を通じた収奪的なもので、同化政策はほぼ行われなかった[12]。一方1920年代後半に入ると、社会運動家アンドレ・マツワが原住民友愛協会をパリで組織し、黒人差別反対を唱えて盛んに活動を行った。マツワは1929年に逮捕されてブラザヴィルに送還され、さらにチャドへと流されたが、この運動はやがてマツワニズムとしてマツワをあがめる宗教運動へと変質するとともに、コンゴの民族主義運動のはしりと見なされるようになった[13]。1930年代に入ると植民地政府の手で徐々に開発が進められ、1934年には首府のブラザヴィルと外港のポワントノワール間にコンゴ・オセアン鉄道が開通したものの、経済面や教育面などで開発は非常に遅々としたものにとどまっていた[14]。第二次世界大戦においてはコンゴ植民地はほかの赤道アフリカ植民地と歩調を合わせて自由フランス支持を早期に表明した[15]1946年にはフランス議会に議席を獲得し、また赤道アフリカ大評議会と中央コンゴ領域議会が同時に設置された[16]1958年には国民投票により、フランス共同体内の自治共和国となった[9]。当時、コンゴ政界はフェリックス・チカヤのコンゴ進歩党(PPC)、ムボチ人を主体とするジャック・オパンゴールのアフリカ人社会主義運動(MSA)、そしてラリ族(英語版、フランス語版)を主体とするフルベール・ユールーのアフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)の三党鼎立の状態にあったが、進歩党は1957年には失速し、MSAとUDDIAの有力二党の選挙戦で1958年にUDDIAが勝利を収め[17]、ユールーが自治共和国の首相となった[18]
独立詳細は「コンゴ共和国の大統領」を参照コンゴ人民共和国時代の国旗

1960年にはコンゴ共和国として正式独立し、大統領には親仏派のフルベール・ユールーが就任した。しかしユールー政権の腐敗および独裁に対する不満が高まり、1963年8月13日には首都ブラザヴィルで人民が蜂起。「8月革命」が起こり、わずか3日間でユールー政権を打倒した。8月16日には穏健左派のアルフォンセ・マサンバ=デバが大統領に就任し、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、「経済開発計画」(1964?1969年)に基く工業化、古い国家機構の改革など、民族民主革命を実行する政策を追求する社会主義路線を歩んだ[19]。しかし党や軍の下級層が急進化してマサンバ=デバ政権と対立するようになり、1968年にはマリアン・ングアビ大尉によるクーデターが勃発してマサンバ=デバは失脚し、ングアビが代わって大統領に就任した。ングアビ政権はさらに左派寄りの立場を鮮明にし、1969年12月には国名を「コンゴ人民共和国」と改め、コンゴ労働党(PCT)を設立して一党独裁制を取るとともに、マルクス=レーニン主義に基づく国造りを進めた[20]

1977年3月にングアビは暗殺され、首謀者とみなされたマサンバ=デバなど数人の要人が軍部に処刑された。政権はジョアキム・ヨンビ=オパンゴが継いだ[21]
サスヌゲソ政権

1979年にはヨンビ=オパンゴに代わり、ドニ・サスヌゲソが政権の座に就いた。その後1990年代に入ると近隣諸国と同様にコンゴでも民主化要求が強まり、1991年にはサスヌゲソの役割が儀礼上のものにとどめられるようになるとともに、複数政党制が導入され、共産主義を放棄して国名を「コンゴ人民共和国」から独立時の「コンゴ共和国」に戻し、国旗も変更された。1992年の選挙では、北部に基盤を置きサスヌゲソが率いるコンゴ労働党、南部に基盤を置きパスカル・リスバの率いる社会民主主義パン・アフリカン連合(UPADS)、そして中部および首都ブラザヴィルに基盤を置きベルナール・コレラ(英語版)が率いるコンゴ民主統合発展運動(英語版)(MCDDI)の有力三党が対決し、UPADSが勝利してリスバが大統領に就任した[22]

しかし、各政党はサスヌゲソ派の「コブラ」、リスバ派の「ズールー」、そしてコレラ派の「ニンジャ」といった私兵を抱えて対立を続け、1993年6月にはリスバが連立相手である民主開発戦線(RDD)のヨンビ=オパンゴ元大統領を首相に任命したのを機に衝突が起きてコンゴ共和国内戦(英語版)が勃発した。1994年1月には停戦が成立し同年8月にはコレラがブラザヴィル市長に就任したものの、各党は私兵を抱えたままであり、不穏な情勢は続いていた[23]1997年6月には戦闘が再開され、サスヌゲソ派とリスバ派の両私兵集団が戦闘と虐殺を繰り広げ、そして9月にリスバがコレラを首相に任命して同盟を組んだことでコレラ派のニンジャも戦闘に加わった。この内戦は結局、10月にサスヌゲソ派がリスバ・コレラ連合を破って首都を制圧し[24]1999年12月には停戦合意が行われたことで終結した[25]

大統領に再度就任したサスヌゲソは権力基盤を固めることに成功し、以後の選挙でも再選を重ねている。一方で私兵集団の武装解除は遅れ、特にニンジャは2003年の和平合意後コレラの統制下を離れてフレデリック・ビツァング(英語版)(通称ントゥミ牧師)率いるレジスタンス国民会議のもとで武装闘争を継続し、首都周辺で襲撃を繰り返した。2016年にもブラザヴィルでニンジャによるとみられる襲撃があり、5人が死亡している[26]。この襲撃は、2017年に両勢力間で和平合意が成立するまで続いた[27]
政治大統領ドニ・サスヌゲソ。詳細は「コンゴ共和国の政治(フランス語版、英語版)」を参照

コンゴの共和国議会二院制を取っている。コンゴ共和国は複数政党制民主主義を称しているが、与党コンゴ労働党 (Parti Congolais du Travail、Congolese Labour Party、PCT)の勢力が非常に強い。大統領のドニ・サスヌゲソは1979年から1992年まで一党制時代の大統領を務め、その後1997年の内戦に勝利して以降再び長期にわたって政権の座にあるが、独裁的な傾向や腐敗が度々指摘されている。2015年には憲法改正によって大統領の三選禁止規定が撤廃され[27]、2016年の大統領選挙でもサスヌゲソが再選されたものの、野党勢力は選挙不正に対して抗議を行っている[26]

このほか野党としては、次のものがある。

社会民主主義パン・アフリカン連合 (Union Panafricaine pour la Democratie Sociale、Pan-African Union for Social-Democracy、UPADS)

コンゴ民主統合発展運動 (Mouvement congolais pour la democratie et le developpement integral、Congolese Movement for Democracy and Integral Development、MCDDI)

民主救済会議 (Convention pour la Democratie et le Salut、Convention for Democracy and Salvation)

統一民主勢力 (Forces Democratiques Unies、United Democratic Forces)

民主共和連合 (Union pour la Democratie et la Republique-Mwinda、Union for Democracy and Republic)

民主改革連合 (Union pour la Renouveau Democratique、Union for Democratic Renewal)

民主開発連合 (民主発展連合、Rassemblement pour la democratie et le developpement、Rally for Democracy and Development)

このうち、UPADSとMCDDIは1997年まで現与党と激しい内戦を繰り広げており、その後も議会内野党となっているが勢力は大きくない。
国際関係詳細は「コンゴ共和国の国際関係(フランス語版、英語版)」を参照

旧宗主国であるフランスとの関係が強く、2017年にコンゴが受け取った政府開発援助の半分以上がフランス拠出のものであったが、一方で1970年代にマルクス・レーニン主義を取っていたこともあって伝統的に中華人民共和国との関係も深く、巨額の融資を受け取るなど経済的関係も強くなってきている[27]


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