コンコルド墜落事故
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この事故により乗員9名、乗客100名の搭乗者109名全員と墜落現場付近にいた4名のあわせて113名が死亡し[4]、10名以上が負傷する大惨事となった。また、この事故により発生した火災の鎮火まで3時間を必要とした[3]
事故原因

4590便として運行されていたコンコルドには離陸前点検で左翼内側の第2エンジンに異常が発見され、逆噴射装置の部品を交換していたことで予定よりも出発が遅れており、この点も事故原因との関連が疑われた。また4590便にはツアー客以外の荷物19個が積まれたことが判っており、テロの可能性も検討されたが、事故の原因を決定的にしたのが滑走路に残されたタイヤの破片であった。

フランス運輸省事故調査局は2001年1月5日に事故原因として、まず離陸中に2番タイヤが破裂したことを挙げた[1][出典無効][3]。車輪はダンロップ製、タイヤはグッドイヤー製で1996年からコンコルドに使用されるようになった[3]。4590便が時速323kmで離陸滑走中にタイヤが破裂し、空気圧と遠心力で吹き飛んだタイヤの破片のうち、重量4.5kgの比較的大きな破片が主翼下面の5番燃料タンク外壁に衝突した[3]。衝突部は大きく陥没しただけで貫通はしなかったが、主翼内部の燃料タンクにその衝撃が伝わり、圧力によって燃料タンクの前部が破裂して激しい燃料漏出(毎秒75リットル)が起きた[1][出典無効]。漏れ出た燃料は霧状になって主翼下面を流れ即座に発火した。これによってアルミ製の主翼は徐々に融解し、主翼のエレボンも脱落し、エンジンの推力も徐々に失われた。クルーは高度を上げようと努めたが高度60mから上昇させることはできなかった。やがて機体はバランスを失い、機首を高く上げて失速したと断定された[1][出典無効]。

また同報告書ではタイヤが破裂した原因として、タイヤの破片に残った金属片が食い込んだ跡に注目した[3]。その痕跡に一致するチタン製金属部品(長さ43cm、幅2.5cm)も程なく滑走路脇から回収された[3]。これにより離陸滑走中に金属片を踏んだことがタイヤの破裂を引き起こしたと結論付けた。タイヤの破裂を引き起こしたとみられる金属部品について、5週間かけて捜索をしたところ、マクドネル・ダグラス DC-10のエンジン部品の一つ(スラストリバーサの構成部品)と判明した[1][出典無効]。4590便が離陸する5分前に同じ滑走路を離陸したアメリカのコンチネンタル航空55便(DC-10)のエンジン部分を調べたところ、第2エンジンの該当部品が脱落して無くなっていることが確認された[3]
事故の原因を作ったDC-10コンチネンタル航空のDC-10

フランス事故調査当局は問題の金属片を落下させたとみられるDC-10の主翼を調査し、機材の消耗が著しく、機体のメーカーが定める耐久基準をも満たしていなかったと結論づけた。問題の部品は正規の部品ではなく(正規の部品は柔らかい合金製であった)、部品メーカーで30年前に製作されたものであった。また事故発生の16日前に取り付けたにもかかわらず落下しており、コンチネンタル航空に整備ミスがあったと指摘した。

そのためエールフランスと保険会社は、2000年11月にコンチネンタル航空を相手取り損害賠償訴訟を起こした。一方、コンチネンタル側は自社の金属片であったことを否定している。フランスの司法当局も2004年12月に事故はコンチネンタル航空の整備ミスが事故の根本原因だったと結論、2005年3月にコンチネンタルの刑事告発に踏み切った。

2010年12月6日にポントワーズ軽罪裁判所はコンチネンタル航空の過失を認め、罰金20万ユーロ(約2200万円)の有罪判決を言い渡し、同航空機の整備を担当した従業員1人に禁錮15カ月の執行猶予付き判決を言い渡した。コンチネンタル航空はこれに控訴して争い、ベルサイユ控訴院は2012年11月29日にコンチネンタル航空・従業員ともに逆転無罪判決を出している[5][6]。一方、並行する民事裁判では、事故によってエール・フランス航空のイメージが低下した責任はコンチネンタル航空にあるとして、100万ユーロ(約8260万円)の損害賠償を命じた1審判決を支持した[5]

なお、金属片を落下させたDC-10(機体記号:N13067)は、元々はイタリアアリタリア航空の機体(機体記号:I-DYNB)として1974年4月に登録された機体で、その後1985年6月にイースタン航空の手に渡った後(機体記号:N391EA)、1990年9月よりコンチネンタル航空で運用されていた。この機体はその後、2002年2月に退役し、2012年にモハーヴェで解体されている。
事故の詳細な調査
墜落現場

墜落現場は小さなブロックに分けられ、詳細な調査が行われた。左翼と尾部が地上に激突して出来たクレーターも同定された。現場での調査が終了するまで4週間かかり、その後コンコルドの残骸は現場から搬出され、コンコルドが向かおうとしたルブールジェ空港の3つの格納庫に収納され、さらなる調査が行われた[1][出典無効]。機体だけではなく、ホテルの残骸も格納庫に運ばれた。ブラックボックスは事故の数時間後には現場から発見された。
乗員乗客

乗員乗客はコクピットも含めて全員、離陸時の着座位置のままで発見された[3]。シートベルトは全員固定されていたが、座席は衝撃で粉砕されていた[3]。乗客には20年間の貯金をこの旅行に充てた夫妻や親子3世代で搭乗した6人家族も居た[1][出典無効]。ホテルでは事故の2日前に勤務し始めたばかりの女性も犠牲になった[1][出典無効]。ほとんどの遺体は火災によって激しく損傷していたため法医学的検討によって判別が行われた[1][出典無効]。事故の2日後、事故現場に遺族が立ち入ることが許され献花を行った。
エンジン出力

ブラックボックスの記録により、離陸時に左翼の1番2番エンジンの推力がほとんど失われていたことが判明した。離陸後すぐにコクピットの機関士は2番エンジンの火災警報を受けて2番エンジンをアイドリング状態にした[3]。やがて火災警報は1番エンジンでも報じられるようになり、1番エンジンも急激に出力が低下した[3]。1番エンジンの出力が低下した理由は、燃料供給が不安定になったことと、サージングであるとされた[3]。こうして左翼の2つのエンジンは推力が失われた。推力の左右不均衡を小さくするために右翼の第3第4エンジンの出力は80%程度に落とさざるを得なかった。第3第4エンジンは墜落の直前まで推力を保ったが、機体角度が著しいアップトリムになったことでサージングを起こし、墜落直前に大きく推力を減じた[3]。墜落現場で発見された4つのエンジンには墜落前の火災によるダメージは無かった[3]が、異物を吸い込んだことによる小さなダメージが認められた。
タイヤの破損

コンコルドは元々離着陸速度が速く、タイヤ表面が高温になるためタイヤ内気圧が高くなりパンクが多かった。24年間で50件を超えるパンク事故があった。1979年には年間9件のパンク事故があり、内3件ではタイヤが完全に失われている(タイヤの改良によって1995年以降は年間0?3件に減った)[3]。またパンクによる翼内燃料タンクの破損も過去6回発生しているが、発火に至っていない。事故調査委員会は、脱落したDC-10と同形状のチタン製金属片を準備し、コンコルドの車輪に離陸時の荷重(25t)を加えて金属片の上を通過したところ、タイヤがパンクすることを複数回確認した[3]。タイヤの破裂によって飛び散る破片は通過速度によって異なったが、数キログラム程度のものが最も多く、その飛散速度は60メートル毎秒 (220 km/h)であった[3]。コンコルドはタイヤの破損によって飛散する破片の重量を1kgと想定して翼の外壁の強度を設定していた[1][出典無効]。またタイヤが破損してから墜落するまでの時間はわずか81秒だったと判明した[1][出典無効]。
燃料の発火

漏れ出た燃料への最初の発火はコンコルドが滑走中のV1とVRの間の速度域にあるときに発生した[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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