1992年、カリフォルニア州バークレーはコロンバス・デーを「Indigenous People's Day 」(先住民の日)と置き換え[30]、以降カリフォルニア州のセバストボル、サンタクルーズの他、ウィスコンシン州デーン郡、ミネソタ州ミネアポリス・セントポール都市圏、ワシントン州シアトル、モンタナ州ミズーラ、マサチューセッツ州ケンブリッジなどが追随した[31][27][32][33][34]。オクラホマ州の複数の部族政府は「Native American Day 」(ネイティヴ・アメリカンの日)、またはそれぞれの部族の名を冠した日と制定した[35]。 コロンブスを送り出したスペインの他、この出来事をきっかけとしてスペインの植民地支配を受けた中南米諸国でも、この日あるいは直近の月曜日などが祝日となっている。 コロンバスがアメリカ大陸に到着した日はラテンアメリカの多くの国でも祝われている。コロンバスをきっかけにして植民地支配を受けることになった中南米でも、10月12日(あるいは直近の月曜日)を祝日としている国が少なくない。アメリカのラテン・アメリカ人コミュニティの一部を含み多くのスペイン語圏では通常スペインと同じ「Dia de la Raza 」(民族の日またはヒスパニックの人々の日)という名称を使い、ヨーロッパ人とアメリカ州の先住民族の最初の出会いを祝う[36]。スペイン語圏としての一体性を強調しているが、国によっては別の名称で呼ばれることもある。1917年、アルゼンチンで初めて祝われ、1921年にベネズエラとコロンビア、1922年にチリ、1928年にメキシコで祝われるようになった。スペインでもこの名称で祝われていたが、1957年から「Dia de la Hispanidad 」(スペイン人の日)となった。2002年、ベネズエラでは祝日であり続けているものの、「Dia de la Resistencia Indigena 」(先住民抵抗の日)という名称に変更されている。当初アメリカに影響を与えたスペインを祝す日、スペインおよびラテン・アメリカで互いに祝い合う証しとされていたが、ラテン・アメリカ中の先住民活動家に知られるようになりコロンバス・デーに反対し、アメリカにヨーロッパ人が到着したことを嫌って抵抗し、先住民と文化を祝うべきだとしている。 特に1960年代、アメリカでは民族の日にラテンの活動家たちが集まった。それ以降民族の日はヒスパニックの活動家たちの定期的な抗議活動の場となった。1996年のコロンバス・デーの日、ワシントンにてヒスパニックによる最初のデモが行われた。ヒスパニック系最大の社会的公正組織「National Council of La Raza 」としてその名が残っている[3]。中南米全体の傾向として、スペインによる侵略と殺戮、略奪が始まった日として、特に先住民系の人たちによる抗議デモも開催される[37]。 クリストファー・コロンバスから名がつけられた世界で唯一の国であるコロンビアでは「El dia de la Raza y de la Hispanidad」として祝い、「2つの世界」の出会いを祝う機会となっており、人種の違いが文化をもたらした恩恵を反映している。 1921年から2002年、他の多くのラテン・アメリカの国々同様民族の日が祝われていた。1921年、フアン・ビセンテ・ゴメス大統領のもと、初めて公式に祝われた。2002年、ウゴ・チャベス大統領のもと、先住民抵抗の日に改名されヨーロッパ人に対する先住民の抵抗を記念した。2004年10月12日、政府支持の活動家の群衆によりカラカスにあるクリストファー・コロンバスの像が倒され、台座中に落書きされた。チャベス支持者のウエブサイトAporreaには「バグダードにあるサッダーム・フセインの像と同じように、2004年10月12日、カラカスで暴君コロンバスの像が倒された」と記された[39]。フセインの像が倒された翌年のことであった。
ラテン・アメリカ
Dia de la Raza(民族の日)1947年のアルゼンチン政府のポスター。la Razaのコンセプトが記されている。
コロンビア
ベネズエラ2006年6月6日、カラカスにあるコロンバス・ウォークの像。2004年10月12日、新たに制定された先住民抵抗の日の祝典の最中、公開裁判の後に活動家により倒壊させられた[38]。