コロンビア
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ペトロ連立政権から離脱する政党が相次ぎ、公約の医療・年金制度改革も進んでいないことから政権発足1年で支持率は低迷しており、大統領が弾劾され政局が流動化する可能性もある[20]

国際関係詳細は「コロンビアの国際関係(英語版)」を参照第57代大統領フアン・マヌエル・サントス(右)とブラジル大統領ジルマ・ルセフ

伝統的に隣国のベネズエラエクアドルからは再度、両国を侵攻して再び大コロンビアを結成するのではないかとの警戒心を持たれている。両国との国境はゲリラと政府軍との戦場になり、近年[いつ?]ではベネズエラのウゴ・チャベス大統領は、FARCにベネズエラ国内を聖域として提供するなどの行動で両国間の問題となった。このため、一時はコロンビアによるベネズエラ侵攻が現実性を持った政策として浮かんだ一方で、エクアドルとの間ではコロンビア軍によるエクアドルへ逃げたゲリラへの越境攻撃や、枯葉剤の散布が問題となっている。2008年3月、ゲリラへの越境攻撃作戦でエクアドルとの国交が断交。エクアドルに同調し、ニカラグアも断交を発表した。2009年7月にはコロンビアが駐留米軍増強を計画していることについてベネズエラが反発、ベネズエラはロシア戦車の調達を増やすことで対抗するとしており、コロンビア、ベネズエラ間の緊張が高まっている(アンデス危機)。

アメリカ合衆国との関係では、1903年にアメリカの援助を受けてパナマ地峡がパナマ共和国として独立したが、1921年にアメリカとの合意が達成され、パナマの独立はコロンビア政府によって承認された。パナマの独立承認後1920年代から合衆国資本により経済支配が進んだ。その後も親米路線は徹底し、近年ウリベ政権が米国からの援助で内戦を終結させようとする傾向を強くし、イラク戦争を支持するなど一層の同盟関係の強化が進んだ。現在[いつ?]はアメリカとの自由貿易協定締結を目指している。2009年8月14日には、アメリカとコロンビアとの間で軍事同盟が正式発効した。しかし、これにベネズエラが「宣戦布告」と反発している。

2010年7月22日、ベネズエラとの国交を断絶[21]したが同年8月11日、国交を回復することで合意した[22]

ベネズエラ経済危機でベネズエラ難民がコロンビアに殺到しており、2018年9月時点でその数は100万人を超える。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題になっている[23]

2019年2月24日にコロンビアからベネズエラに運ばれる人道支援物資を国境のベネズエラ軍が妨害したことが原因で両国の緊張が高まり、ベネズエラのマドゥロ政権はコロンビアとの国交を断絶した[24]。しかし2022年8月7日にコロンビア初の左派政権となるグスタボ・ペトロ大統領が就任したことをきっかけに、8月28日にベネズエラとの国交回復が行われた[25]

2010年環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に参加する意向を明らかにした[26]
日本との関係詳細は「日本とコロンビアの関係」を参照

1908年明治41年)5月25日、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、両国間の国交が開かれた。コロンビアに初めて足を踏み入れた日本人庭師の川口友広とされている。1908年、商用目的で日本を訪れたコロンビア人アントニオ・イスキエルド(1862‐1922)が川口ら3名の日本人をコロンビアに連れて帰り、川口はボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口は日本で皇族の庭仕事をしていただけでなく、大隈重信の下でも働いていた経験があり、大隈の推挙によりイスキエルドとともにコロンビアに渡ったとされる。渡航後の川口の消息は不明だが、ボゴタに墓碑があるとの未確認情報もある[27]。川口の次にコロンビアに入国した日本人は1915年大正4年)、広島県竹原市出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸のバランキージャに移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが日系コロンビア人の源流となった[28]1921年大正10年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の関東大震災東京の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚。子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、昭和天皇崩御の際は当時のバルコ大統領の代行で来日した。1923年には島清、中村明ら5名が「安洋丸」でブエナベンツーラ港に入港。1926年、海外興行会社社員の竹島雄三らにより移住候補地の調査開始。1929年昭和4年)、主に福岡県などから入植が始まり、農業で成功した。ブラジルペルーに比べて少ないが、現在[いつ?]もカリを中心に1800人ほどの日系コロンビア人が存在し、南米の日系移民では最も成功したとされる。1941年太平洋戦争で一時国交を断交したが、戦後1952年に再開した。また戦後の食糧難の時代にコロンビアは日本にを送った。貿易関係ではコロンビア産のコーヒー、花卉が多く日本に輸出、自動車、電子機器がコロンビアに輸入されている。

現在は官民の各部門で両国の文化・人材交流事業を積極的に展開している。
地理コロンビアの自然区分(英語版)
六つの地域に分かれる。コロンビアを中心とする北アンデスの地形コロンビアのリャノネバド・デル・ルイス火山マカレナ山地(英語版)から流れる川キャノ・クリスタレス(英語版)の川底には様々な水草(Rhyncholacis(英語版)など)が生えており、ピンク・緑など様々な色彩となる。詳細は「コロンビアの地理(スペイン語版、英語版)」を参照

国内はコロンビアの自然区分(英語版)によると、(I)アンデス地域(Andean Region)、(II)カリブ海岸低地地方(Caribbean Region)、(III)太平洋低地(Pacific Region)、東部の(IV)オリノコ地域(Orinoquia Region)・(V)アマゾン地域(Amazon Region)、及び(VI)島嶼(Insular Region)に分かれる。人口密集地は六地域に分けることができ、この六地域の反目がお互いを刺激しあって、競争による発展と時として暴力を用いた激しい対立を招いている。

東部はそのままベネスエラの地形に続きオリノコ川流域平原にはリャノが、グアジャナ高地にはアマゾンの熱帯雨林が広がり、これらの地域は国土の2/3を占めている。東部にはブラジルのネグロ川に連なるグアビアーレ川が流れる。東部を除いた残りの西部は国土の1/3を占め、人口の大部分はこの西部に居住していて、国土が広い割には人間がまとまって住んでいる地域は西部のアンデス地方や沿岸部に限られる。エクアドル国境付近の海岸地帯ではマングローブの林が広がる。北部にはマグダレーナ川カウカ川が南から北のカリブ海に流れる。
山詳細は「コロンビアの山の一覧(英語版)」を参照

北部には国名と同様、カリブ海側のシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地(スペイン語版、英語版)には、コロンにちなんで名付けられた国内最高峰の北部海岸サンタ・マルタに近い独立峰クリストバル・コロン山標高5775m)がある。ボゴタ西方のネバドデルルイス火山(標高5389m)は1985年の噴火で史上最悪の2万3千人という犠牲者を出した。太平洋側では、パナマからプエナベントゥラまで続くバウド山脈(スペイン語版、英語版)は中央アメリカの延長である。

エクアドルから続くアンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(スペイン語版、英語版)と、中央のセントラル山脈(スペイン語版、英語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)に別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈には3000m級の山、セントラル山脈にはウイラ山(5364メートル)、トリマ山(5220メートル)、ルイス山(5321メートル)[注釈 4] などの5000m級の山が存在し、そこには氷河も残っており、メデジンを含むアンティオキア地方や、カリを含むバジェ・デル・カウカ(カウカ河谷)地方もこの山脈内にある。


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