コロンビア
[Wikipedia|▼Menu]
コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続いて、ラテンアメリカで第3位である。世界的なコーヒー豆の産地として知られるほか、エメラルドの産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラカーネーションなどの栽培と切り花の輸出にも力を入れている。ラン国花である。

コロンビアはNATO唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD加盟国の1つである[5]2020年フォーブス誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした[6]
国名

正式名称は、Republica de Colombia [re?puβlika de ko?lombja]. 通称Colombia。

公式の英語表記は、Republic of Colombia [r??p?bl?k ?v k??l?mbi?, k??l?mbi?] . 通称Colombia。

日本語の表記は、コロンビア共和国。通称コロンビア。漢字による当て字は、哥倫比亜、もしくは古倫比亜である。

国名は直接的にはアメリカ大陸の発見クリストーバル・コロン(コロンブス)に由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペイングラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダであり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバルは南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてコロンビア共和国(後世グラン・コロンビアと呼ばれる)が採用された。1831年にヌエバ・グラナダ共和国として独立した後、1858年にはグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。
歴史詳細は「コロンビアの歴史」を参照
先コロンブス期エル・ドラード伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏「先コロンブス期」も参照

紀元前1450年ごろに、ボゴタ近郊のエル・アブラ(スペイン語版、英語版)の遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケ(Cacique、Cacicazgos)と呼ばれる首長による一種の首長制[要曖昧さ回避]国家群を発展させた。その好例をチブチャ系 (Chibcha) のムイスカタイロナ、カリマ(スペイン語版、英語版)、キンバヤ(スペイン語版、英語版)、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカ木綿と交換することにより生計を立てていた。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるコロンビアの征服(スペイン語版、英語版)」も参照クリストファー・コロンブスアメリカ大陸上陸

西暦1500年に、ロドリーゴ・デ・バスティーダス(スペイン語版、英語版)に率いられたスペイン人探検家カリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年クリストファー・コロンブスはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(英語版)(Santa Maria la Antigua del Darien) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ系(Karib)が多数を占めていた。バカタ(スペイン語版)を首都とするムイスカ連邦(スペイン語版)(1450年 - 1537年、Bogota Kingdom - バカタ王国(スペイン語版)とも)はムイスカ人の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降、スペイン人の拠点となった。

スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後、カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍海賊の攻撃は続き、現在[いつ?]も城壁が残っている。

1781年、ソコーロ(英語版)で増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱(英語版)を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。
独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照アントニオ・ナリーニョククタ議会(スペイン語版、英語版)でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルシモン・ボリバルをはじめとするコロンビア独立の志士たち。

19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万?15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。

1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してボゴタ県(スペイン語版)(サンタフェ・デ・ボゴタを中心)にクンディナマルカ共和国(スペイン語版、英語版)(1810年 - 1815年)の独立を宣言した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:217 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef