コロンビア自衛軍連合
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AUCはその件への関与を公式に否定し、コロンビアの大統領ウリベはベネズエラの大統領による逮捕を祝い捜査に協力すると誓った。チャベスはこの件で「マイアミ、ボゴタの寡頭政治」の「分子」を非難したが、外交上自身はウリベの作戦への関与を信じなかったと宣言した。個々の米国とコロンビアの上級将校も関与が疑われたが否認した。

コロンビア副大統領フランシスコ・サントス・カルデロンは「ベネズエラの政府がこの件を非難するのと同じ熱意でベネズエラに越境している FARCとELNゲリラを追跡するよう望む」と付け加えた。ベネズエラの反対派はチャベスが大統領の罷免を求める国民投票の潜在的承認を妨げるつもりでの「八百長」として事件全体を否定した。

逮捕者の大半はククタ出身者を含む明らかに失業中の貧農だった。コロンビアのククタ地域では通常軍への兵役が生涯に数回課され彼らは予備役の資格があった。また数人の女性と未成年者がその中に含まれていた。後者はコロンビアに即時に送還された。訴えられた約100人の準軍組織はベネズエラ陸軍の制服姿で捕らえられ単一の銃を持っていた。少なくとも2人の準軍組織司令官とみられる者が捕らえられた。
2004年後半の「武装解除」

2004年11月コロンビアの最高裁判所は国家が勾留した唯一の人物・FARC 指揮官シモン・トリニダードと共に準軍組織の最高司令官のサルバトーレ・マンクーソとカルロス・カスターニョの送還を承認した。[5]法廷はすべて麻薬取引とマネーロンダリングの告発のための3人の米国への送還要求をコロンビアの現行法の手順を踏んで決定した。したがってコロンビアの大統領が承認すればそれは現在も有効である。

コロンビアのメディアは政府がサルバトレ・マンクソの送還を承認する可能性もあるが、彼とその組織が政権と行っている「和平交渉」の継続のためにそれを遅らせるだろうと推測した。マンクソ自身は彼が最高裁判所の判決にもかかわらず、合意に参加し続けると宣言した。

11月後半と12月前半にAUCとの和平交渉で新しい出来事があった。最初にブロケ・バナネロ(訳すとバナナ生産者団)の数百人がその武器を引渡し、民間の生活に再統合されるために解隊した。このグループは、AUCがFARCを追い払った北アンティオキアのウラバ地区に展開し、1990年代後半の半ばに地区を制圧した。しかしAUCは「治安を維持しFARCが戻るのを防ぐため」として依然として他の部隊を駐留させ地区を支配している。

また数週間後にカタトゥンボ団も解隊した。1425人の傭兵を擁したカタトゥンボ団はコロンビアで最も主要なAUC組織の1つだったので、これはコロンビアの歴史の里程標とみられた。彼らと共にサルバトレ・マンクソは自首した。数日後ウリベ政権は、彼が犯罪の活動を避けて和平プロセスへの参加を維持する限り、マンクソの送還を有効にしないと発表した。

これら大規模なAUC部隊の解隊の両方がメデジンでの2003年の初めのものに続いた。この時に引渡された武器は、最初の武装解除でみられた手製の散弾銃や取扱の難しい拳銃より、アサルトライフル機関銃擲弾発射筒ロケット砲等が多数を占めた。AUCは2006年までの完全な解隊が想定されている。
2005年:法的枠組みと議論

多くのコロンビア人と国際的監視者が武装解除の見通しに関して疑い深く複数の要因から批判する。コロンビア内外の多数の評論家の共通の関心は、武装解除の過程が「真実、償い、および正義」と名付けられた極僅かな法的な枠組みすら無ければ、人権侵害を遂行した者たちがその罪に対する過度の刑罰の免除を楽しむのを許すことになるだろうということである。別の関心は武装解除の過程の支持者が、準軍組織自体のある程度の了解なしで刑罰の免除を減少させるある一方的な試みが文章で存在し、実際に有効ではないと信じているとするものである。

また少数の評論家はウリベ政権がAUCを民間警備会社の民兵や他の軍の組織と統合する可能性への懸念を表明した。軍と政府の広報官は、何度かAUCを国家の合法的治安組織と統合する意志は全くないと宣言した。事例の報告はまだ全く出されていないが、「ゲリラの侵入の可能性を防ぐために」以前彼らの影響と支配の下にあった地域で民間出資の警備会社に合流(或は設立)したいとの意図を示すいくつかの個々の準軍組織の兆候がある。

潜在的な免責についての議論では多くのコロンビアのメディアに加えシカゴ・トリビューンニューヨーク・タイムズの社説にも批判的な見解が示されたように、国際的・コロンビアのメディア共に明確な態度を示した。いくつかの社説の主な論調は、国際社会が免責を最小限にする必要な法的な枠組みができるまで、武装解除の過程への資金提供を支援すべきでないというものだった。この立場はカルタヘナでの支援者の会議で国際社会の代表によって確認された[6][7]

2004年の後期に公的私的な議論が積み重ねられた結果、2005年始めに政府支持派のラファエル・パルド、ヒナ・パロディや、左派の元労働指導者で200年12月15日の準軍組織による暗殺から生還したウィルソン・ボルハを含む超党派により、ヒューマン・ライツ・ウォッチなどのコロンビア内外のNGOの監修も得て、政権主導の提案より適切に「準軍組織主義」を解体し刑罰の免除を減少させるという必要条件を満たす実質的な改善を示す法案が示された。これら超党派でこの法案は見かけ上広い合意上の支持を得ている[8] [9]

コロンビア国会での審議は2005年2月15日に始まったが、大幅に遅れた。コロンビア政府の公式の法案は明らかに徐々にいくつかの条項をパルド、パロディ、ボルハの提案から取り入れたが、議題に関するさらなる議論の元になる多くの不一致が残った。また政府の支持者を含む他の国会議員もそれぞれの法案を提示した。

2月23日、AUC司令官はWeb上で「彼らが考慮しない敵の左派ゲリラから過度の屈辱を受けることになる」として法的枠組みに従わないとする声明を出した。また、彼らは公正で平和的な方法で戦闘員が民間の生産的な生活に戻る法案を望むと宣言した。そのような条件がなければ、彼らは「戦争と死」を続けるという見通しに直面する、として交渉の打切り主張した。政権の広報は、AUCは国会やメディア、法的な枠組みの責任者に圧力をかけるべきでなく、話合いをやめるのを選んだなら5日以内にラリトの保護区を去るべきだ、と応じた。AUCは後に以前の声明の調子を下げた[10]

4月11日、AUC広報係は現在の恩赦の提案が主としてまだ麻薬の罪による送還の余地があるため厳し過ぎるという彼らの主張を繰り返した[11]
他組織との連携

上記のとおりコロンビア革命軍やほかの左翼ゲリラとは激しく対立し、軍や治安部隊とは戦闘を避けていたが、和平が近付くにつれ政府との対立姿勢を強めていた。

創設時のAUCはイスラエルと密接な関わりがあり、前身の準軍組織がイスラエルの元軍人に訓練を受けていたほか、イスラエル人の武器商がニカラグアの軍隊や警察から中古で調達した武器を供給していた。またFARC同様麻薬カルテルとの関係が深く、カリ・カルテルが暗殺団「Los Pepes」を組織する際、AUCの前身組織が人員を提供していたという説もある。

また、国際的な果物企業チキータ・ブランドはAUCに多額の献金をしており、武器取引の際にも船舶を使用させていたとされている。そのほか、イタリア系であるサルバトーレ・マンクーソは、マフィアンドランゲタと強い人脈を持っており、AUCのコカイン取引を仲介していた。

AUCが活動を停止した現在でもブラック・イーグル団[12]ロス・ラストロホスロス・ウラベノスといった新興右翼民兵勢力が反政府軍と交戦、テロ活動を実行していたが、彼らは現在「BACRIM(犯罪グループ)」と呼ばれ、麻薬取引を活動の中心にしている。

右翼でありながら非合法組織であるため、武器の大半はロシア製であるが、アメリカ製の武器も使用している。
脚註^[1]
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^[6]
^[7]
^[8]
^[9]
^[10]
^[11]
^ カスターニョの兄ビセンテが設立

外部リンク

BBC article: Colombia's growing paramilitary force

UN High Commissioner for Human Rights - Colombia 2005 Report(スペイン語)(英語)

Human Rights Watch 。Paramilitary Violations of International Humanitarian Law

Amnesty International 。


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