コロラド州
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今日コロラド州となっている地域には、13,000年以上前からインディアンが住んでいた。ラリマー郡にあるリンデンマイアー遺跡では紀元前11200年から同3000年と同定できる人工物が出土している。ロッキー山脈の東縁は主要な回遊ルートであり、アメリカ大陸に人類が広がっていくうえで重要だった。古代プエブロ人が、コロラド高原のバレーやメサに住んでいた[3]ユト族インディアンはロッキー山脈の南部と西部にある山岳部バレーに住んでいた。アラパホ族やシャイアン族は狩猟のためにハイプレーンズ(英語版)(グレートプレーンズ西部の高原)を横切って西に移動していた。

ロッキー山脈の東にあるコロラド州の東側の部分は1803年ルイジアナ買収のときに、アメリカ合衆国がフランスから獲得した。この時にアメリカ合衆国が得た領土は、スペインサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ入植地周辺の広大な領土と重なり、紛争が生じた。その地域ではスペインがインディアンと交易を行っていた。1806年、ゼブロン・パイク大佐がアメリカ陸軍の偵察隊を率いて、この論争のあった地域に入った。翌年2月にパイクとその隊員はサンルイス・バレーでスペイン騎兵隊に逮捕されてチワワ州に連行され、7月にはメキシコから追放された。アーカンザス川沿いのベントズ・オールド・フォート国立史跡、1833年から1849年まで維持された

1819年のアダムズ=オニス条約により、スペインからフロリダを購入した見返りとして、アメリカ合衆国はアーカンザス川の南と西、北緯42度線より南、西経100度線より西の全ての土地を放棄した。この条約は1821年2月22日に執行となった。スペインとの国境問題が解決したことで、1821年8月10日にはミズーリ準州の南東部をミズーリ州として昇格させた。コロラド州の北東部となる所を含んでいたミズーリ準州の残り部分は未編入領土となり、奴隷制問題のために33年間もそのままにされた。スペインは11年間に及んだ戦争の後で、1821年8月24日に結んだコルドバ条約により、メキシコの独立を承認した。メキシコはアダムズ=オニス条約を1831年に批准した。1835年から1836年にかけてのテキサス革命によってアメリカ合衆国とメキシコの間の紛争が加速され、1846年開戦の米墨戦争に繋がった。1848年に戦争を終わらせるために結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約によって、メキシコはその北部領土をアメリカ合衆国に割譲した。

19世紀半ば、オレゴン・カントリーカリフォルニアの新しい金鉱原、およびソルトレイク・バレーのモルモン教徒入植地であるデザレットに陸路向かうアメリカ人開拓者の大半は、岩の多いロッキー山脈の南部を避け、ノース・プラット川とスウィートウォーター川を辿って、ロッキー山脈の南部と中部の間にある大陸分水界では最も低い峠であるサウス・パスを越えて進んだ。1849年、ソルトレイク・バレーのモルモン教徒は超法規的なデザレット州を創設し、グレートベースンの全体と、グリーン川、グランド川、コロラド川の流域全てを領域に含むものと主張した。モルモン教徒は神権政治的であり、複婚を是認していたので、連邦政府はモルモン教徒の新政府を承認することをにべもなくはねつけた。その代わりに1850年妥協によって、メキシコ割譲地テキサス州が領有主張していた北西部を、1つの新州、すなわちカリフォルニア州と、2つの準州、すなわちニューメキシコ準州ユタ準州に分けた。1851年4月9日、ニューメキシコのタオス地域からきたメキシコ系アメリカ人開拓者が、当時ニューメキシコ準州内、後にコロラド州の最初のヨーロッパ系アメリカ人開拓地としてサンルイスの村を設立した。

1854年、アメリカ合衆国上院議員スティーブン・ダグラスが連邦議会を説得して、大陸分水界より東の領土をカンザス準州ネブラスカ準州に分け、さらにその南にインディアン領土と呼ばれる未編入領域を設けた。新しい準州2つはその領域内で奴隷制を採用するかを住民が決定できるものとされたが、この妥協は自由土地派と奴隷制擁護派の間の敵意を増しただけだった。
パイクスピーク・ゴールドラッシュデンバー鉱山キャンプの版画、1859年

1858年7月、当時のカンザス準州西部にあるサウス・プラット川沿いで金が発見され、パイクスピーク・ゴールドラッシュが始まった[4]。地域にある川や水流沿いの砂金鉱床は急速に取り尽くされたが、鉱山師達が間もなく近くの山の中でさらに大きな価値のある金鉱脈を発見した。

金の探求者達が1859年8月24日にジェファーソン準州の暫定政府を組織化したが、奴隷制に関する論議の煽りを食ってこの新しい準州に対するアメリカ合衆国議会の承認を得られなかった。1860年11月6日、アメリカ合衆国大統領選挙エイブラハム・リンカーンが大統領に当選し、これが引き金となって南部の奴隷州9州が合衆国からの脱退を宣言し、内乱の脅威が引き起こされた。議会を支配していた共和党は自由州の政治力を補強するために、即座に1861年1月29日、カンザス準州東部を自由州のカンザス州として昇格させ、準州西部の金が探索される地域は未編入領土として残した。
準州法コロラド準州創設前の領域図。ニューメキシコ、ユタ、カンザスおよびネブラスカの各準州が表示されている

その30日後にあたる1861年2月28日、任期終了間近のジェームズ・ブキャナン大統領が、自由準州としてコロラド準州を創設する法案に署名した[5]。当初定められたコロラドの境界は今日も変わっていない。コロラド川の源流が領域内にあると考えられていたので、準州の名前にコロラドが選ばれた[6]。1776年、スペイン人のシルベストレ・バレス・デ・エスカランテ神父が、地域のインディアンは山から川が運ぶ赤茶色の沈泥故に、この川を「エル・リオ・コロラド」と呼んでいたことを記録していた[7]。1859年、ジョン・マコーム大尉の率いるアメリカ陸軍地形工学遠征隊が、現在のユタ州キャニオンランズ国立公園内で、グリーン川とグランド川の合流する地点を突き止めた[8]。マコーム隊はこの合流点をコロラド川の源流と指定した。ホリークロス山コロラド・セントラル鉄道のジョージタウン・ループ、1899年にウィリアム・ヘンリー・ジャクソンが撮影

1861年4月12日、サウスカロライナ州の砲兵隊がサムター砦に砲撃を開始して、南北戦争が始まった。多くの金探求者がアメリカ連合国に同調的だったが、過半数は熱烈に北軍側に忠誠な者達だった。

1862年、テキサス州の騎兵隊がニューメキシコ準州に侵入して、3月10日にサンタフェ市を占領した。アメリカ連合国が西部に侵入した目的はコロラドとカリフォルニアの金鉱原を支配するか妨害するかし、太平洋の港を抑えることだった。このテキサス部隊の動きを遮るために、急拵えで編成されたコロラドの志願兵部隊が、デンバーからニューメキシコ準州のグロリエタ峠に進んだ。3月28日、コロラド部隊とニューメキシコの地元志願兵がグロリエタ峠の戦いでテキサス部隊の進軍を止め、その大砲や物資運搬荷車を破壊し、馬とラバ500頭を逃走させた。テキサス部隊はサンタフェまでの撤退を強いられた。その作戦のための物資を失い、ニューメキシコでもほとんど支援を得られなかったテキサス部隊はサンタフェを放棄してサンアントニオに戻った。その後アメリカ連合国が南西部に進出する試みはなかった。

1864年、コロラド準州知事ジョン・エバンスがジョン・チヴィントン牧師を志願兵部隊の大佐に任命し、牛を盗むと告発されていたシャイアン族やアラパホ族インディアンから開拓者を守るよう命令を出した。チヴィントン大佐はその部隊にサンドクリーク沿いで宿営しているシャイアン族やアラパホ族の集団を攻撃するよう命じた。チヴィントンはこのとき500名以上の戦士を殺したと報告した。この民兵隊はデンバーに凱旋したが、幾人かの役人がこの戦闘と呼ばれているものは、戦う意志の無いインディアンを明らかに虐殺したものだと報告した。殺された者の多くは女子供であり、死体は酷いやり方で損傷されていた。アメリカ陸軍による審問でこの事件を告発し、その後大統領になるアンドリュー・ジョンソンがエバンス知事の辞任を求めたが、結局実行者の誰も罰せられることは無かった。


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