コルホーズ
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農業集団化によるカザフ人の死者数100万人
1932-33年の飢餓の死亡者数ウクライナ:500万人,北カフカース:100万人,その他の地域:100万人
合計1450万人

大飢饉はあったものの、1934年に集団化は完了した[8]。1935年にはコルホーズ模範定款が定められた[8]
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コルホーズへの移行の原因は、ネップ期の間に大きく開いた工業製品と食糧農作物の価格差という意見が中心であるが、この評価は西洋史学とソヴィエト史学では見解が異なる。西洋史学の場合、農民には経済的自由が与えられていたため良心的な値段がつけられていたが、工場等は国家の所有であったために、不当に人民から搾取する高値がつけられたというものである。一方ソヴィエト史学においては、ソ連政府が帝政期の借金を踏み倒したために外国資本が流入しなかったことから工業の発展が遅れ、鉄鋼および電力が不足していたことから高値になるほかなかったという立場を取る。いずれにせよ、工業製品と農作物の間の価格差は、工業製品を手に入れたい農民にとって、農産物の価格高騰を望む大きな動機になっていた。これが国内の食糧不足を引き起こし、調達危機を招いたのである。
東欧諸国

第二次世界大戦でソ連軍に占領され、ソ連型社会主義体制へ移行した東ヨーロッパ諸国でも、ポーランド以外はこのコルホーズと同形態の集団農場による農業の集団化を実行した。一方、1960年代以降、工業化と流通の非効率により2億人を超えたソ連国民の食糧は自給できず、コルホーズの生産性向上は歴代の政権にとって難問であり続けた。
ソ連崩壊

1991年にソビエト連邦が解体されると、コルホーズの存在意義が問われるようになった。ソ連型社会主義からの脱却を指向するウクライナなどの各国ではコルホーズが解体され、自営農民の復活に向けた動きが進んだ。その一方、共同体意識が強く残るロシアの農村などでは従来のコルホーズが形を変えながら維持されているとの指摘もある[誰?]。
現在のコルホーズ

もともと、コレクティーヴノエ・ハジャイストヴァ(集団の経済活動)の略語であるコルホーズは、かつては農業だけでなく漁業林業などにも広く使われ、現在でもその名で経済活動が行われている所もある。

ロシアおよびウクライナでは、かつてのコルホーズは解体しているが、ロシアでは2007年のデータで農産物の内の穀物ヒマワリの種、鶏卵の大部分がコルホーズを引き継ぐ農業企業で生産され、農民経営(自営農)、住民副業(ダーチャでのジャガイモ野菜などの栽培が多い)での生産は少ないことが報告されている[12]

コルホーズはペレストロイカによって民間企業になったが、社名や組織名にコルホーズの名前を残している所は多い。カムチャツカ地方の「レーニン漁業コルホーズ」[13]やギドロストロイの一部として存続しているキーロフ漁業コルホーズ[14]などがある。こうしたコルホーズはソビエト時代からの連続性を自認しており「レーニン漁業コルホーズ」では設立85周年の祝賀式典が2014年に行われている[15]。林業では、もとソビエト連邦に属した国々では、過去の林業コルホーズの状態を脱した状態、脱しえない状態の両方がある[16]

もとソビエト連邦に属したベラルーシでは、いまだにコルホーズ、ソフホーズ主体の農業を継続しており、ソ連期と比較してその傾向はむしろ強められているとも報告されている[17][18][19]
脚注^ 『コルホーズ』 - コトバンク
^ 『ソフホーズ』 - コトバンク
^ a b マリーナ・グルムナーヤ「1920年代ー1930年代のヨーロッパ・ロシア北部におけるコルホーズ・農民・権力」、奥田央編『20世紀ロシア農民史』社会評論社、2006年,p518-20.
^ a b c d e 『世界各国史22 ロシア史』p.303-8


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