紀元前146年、かねてより対立していた共和政ローマから派遣された執政官ルキウス・ムンミウス率いるローマ軍がコリントスを包囲陥落させ、コリントスは完全に破壊された(コリントスの戦い)。その後も少数の住民がかつてコリントスがあった場所に住み着いていたことが考古学的証拠から明らかになっている。 紀元前44年、ガイウス・ユリウス・カエサルは植民市コロニア・ヤウス・ユリア・コロニエンシス[6](コリントのヤウス・ユリア植民市の意)を再建した。これは同年カエサルが暗殺されるより少し前のことであった。 アッピアノスによれば、再建された都市の住民としてローマの解放奴隷が入植した。ローマ帝国の支配下で、コリントスは属州南ギリシア州(またはアカエア州、使徒行伝18:12-16)の政治の中心となった。コリントスは再び繁栄し、富をもって知られた。ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が住民として混住した。 使徒パウロは複数回コリントスを訪れている。1回目の滞在時、総督はルキウス・アンナエウス・セネカの弟のガリオであった(使徒行伝18:1-18)。パウロはこのとき18ヶ月コリントスに滞在した。2回目の滞在時、おそらく『ローマの信徒への手紙』が書かれた。 395年?396年、西ゴート族のアラリック1世がギリシャに侵攻した。コリントスは彼によって略奪された都市のひとつとなり、多くの市民が奴隷として売られた。 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位: 527年 - 565年)治下、サロニコス湾からコリント湾まで大きな石壁が建てられ、都市とペロポネソス半島を北方の蛮族の侵攻から守った。石壁は、長さ約6マイル(10キロメートル)で、エクサミリオン[7]と名づけられた。この時代、コリントスはヘラス(現代のギリシアを意味する)のテマ(軍管区)の中心であった。 12世紀(コムネノス王朝の支配の間)、コリントスは西ヨーロッパのラテン諸国との絹の交易によって繁栄した。しかしその富はルッジェーロ2世治下のシチリアのノルマン人の注意を惹き、1147年に略奪されることとなった。 1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落ののち、ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンはアカイア大公の称号とともにコリントスを与えられた(アカイア公国)。ジョフロワ1世は第4回十字軍に従軍した同名の有名な歴史家(ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン)の甥である。 抵抗の崩壊後、コリントスはアカイア公国の一部分となり、首都であるエーリスのアンドラヴィダ コンスタンティノープルの陥落から5年後の1458年、オスマン帝国はコリントスの都市と城砦を征服した。トルコ人たちはコリントスの地名を Gordu?(Gordes)と改め、ルメリ州(南バルカン地域)のペロポネソス半島地区を統治するモレア[9]のサンジャク(県)の中心地とした。 1687年、ヴェネツィア人がこの地を占領し、1699年にはカルロヴィッツ条約でヴェネツィア共和国の領域に入るが、1715年にオスマン帝国がふたたびこの地を獲得した。1715年から1731年まで、この地はモレア州の首府となり、1731年から1821年まではサンジャクの中心地となった。
古代ローマ時代
東ローマ帝国時代
アカイア公国
オスマン帝国の支配とギリシャ独立戦争