コモン・ロー
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特に神判を禁止して、宣誓をした市民による陪審制度を復活させたこと、全国各地に国王直属の裁判官を派遣する巡回裁判 (assizes) 制度を創設したことが地域的慣習を全国的なものに組み入れたり、格上げしたりして、法(ロー)を全国共通(コモン)のものに改め、地方ごとの支配体制のバラツキをならし、恣意的な救済をなくすことができるようにしてコモン・ローの発展を促したのである[4]。ヘンリー2世の時代に最高法官(chief justiciar)であったレイナルフ・グランヴィルが晩年にあらわした"Tretise on the Lawe of England"には、国王裁判所の主な仕事が土地所有(Landholding)の係争であることが示されている。このような経緯から、コモン・ローにおける「法」 (Law) とは、成文化された「法律」 (a law,Laws) のことではなく、不文の慣習法のことであり、判例が第一次的法源とされ、中世慣習との歴史的継続性が強調されるようになった。もっとも、当時の裁判は、民事事件と刑事事件の区別もなく、陪審も、「証人」としてその地域の常識に基づいて意見を述べればよく、必ずしも証拠が存在しなければならないというものではなかった。この点が、現代の裁判制度と異なる特徴的な要素である。

1215年マグナ・カルタは、王権が成立する前に存在するコモン・ローが王権に優位するとしてバロンの中世的特権を保護したが、ヘンリー3世の治世に、地方の名望家の出身である弁護士から人民間訴訟裁判所の裁判官を任用するようになると、徐々に貴族のみならず、コモン・ローの適用を受ける庶民 (commoner) [注釈 2]も通常裁判所による裁判を通じて王権の専制から保護される道が開かれ、コモン・ローは極めて司法的なものとなっていく。これが後に法の支配の原則の確立に結びついていく。

その後、王会は、大評議会と小評議会に分かれ、小評議会は国王評議会 (King's Concil) に発展した上で、財務府と、大法官に分かれたが、徐々に国王自身が直接裁判を主宰することもなくなり、これに変代わって聖職者や法曹が裁判を行なうようになる。そのような流れの中で財務府は、エドワード1世の治世に、「王座裁判所」 (Court of King's Bench) 、「財務府裁判所」 (Court of Exchequer) 、「人民間訴訟裁判所」 (Court of Common Pleas) [注釈 3]に分かれて発展し、第一次的裁判権を有する多種多様なゲルマン的裁判所の(今日でいうところの)上訴権にあたるものを持つものとされたことから、ここに全国各地の訴訟記録が集積するようになり、コモン・ロー裁判所 (common?law court) と呼ばれるようになった。

12?13世紀にかけて、ボローニャ大学で、ローマ法の研究が進み、1240年ローマ法大全の標準注釈が編纂されると、 全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、英国にも一部ローマ法の理論が持ち込まれた。しかし、既に英国全土の共通法ともいえるコモン・ローの発展を見ていた英国では、大陸において発展した「一般法」(ユス・コムーネ、jus commune)を取り込む必要は乏しかった。

かえって14世紀法曹一元制が確立し、13世紀?15世紀にかけて法曹のギルドである法曹院が成立すると、王権から独立して権限を行使する法律専門家の手によって徐々に、大陸法とは明確に区別される、コモン・ローの特色が形成されていった(英米法#特色も参照)。

法曹院では、徒弟制 (apprenticeship) の下で法廷弁護士候補生に高度な内容の法教育が施されるようになり、法曹が一体となってコモン・ローを整理・体系化し専門化していったが、陪審制度の下では、素人でも適正な判断をすることができるようにする必要があった。そのため専門家である法曹が素人にもわかりやすい一定の判断基準が示す必要が生じ、その結果、コモン・ローでは手続法を通じてその隙間からにじみ出てくるように実体法が形成され、大陸法系のような総則規定や抽象的な法律行為等の専門的な概念は嫌われるようになり、また、弾劾主義当事者主義 (adversarial system) を背景として、口頭主義、直接主義、伝聞法則等に支えられた高度で専門的な法廷技術が発展した。

しかし他方で、コモン・ローは、慣習から発見されるもので、人の手によって変更することができないものと考えられていたことから、実質的に公平な結論を導くため判例として拘束力を有する判決理由 (ratio decidendi) と、有しない傍論 (Obiter dictum) に分け、更に先例となっている訴訟記録における重要な事実を、現に問題になっている事件の事実と「区別」 (distinction) して先例の拘束力を免れるといった技法が編み出されるなどして、過度に専門化する傾向が生じ、次第に形式化・硬直化していった。

そのため、15世紀ころから、コモン・ローの制度によっては認められるべき救済が得られないと考える当事者が、国王に直接訴願することもできるという慣行が成立した。例えば、コモン・ローにより与えられる損害賠償では、所有地に侵入され、占拠されたことに対する賠償として不十分であり、その代わりに不法占拠者を立ち退かせるべきであるなどと主張するがごときである。ここからエクイティ(equity、衡平法)という制度が発達した。エクイティに関しては、大法官が大法官部裁判所において所管した。元来、エクイティとコモン・ローはしばしば矛盾する。そのため、一方の裁判所と他方の裁判所とが相反する裁判をなし、法廷での争いが何年にもわたって続くということもしばしば起こった。こうした状況は、17世紀にエクイティの優越が確立された後も続いた。有名な例としては、架空の事案ではあるが、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』に登場する 「Jarndyce 対 Jarndyce」 の訴訟がある。

16世紀から17世紀にかけて、マグナカルタ以来のコモン・ローの優位、古き国制 (ancient constitution) の伝統が中世慣習との歴史的継続性の強調によって復活し、法の支配エドワード・コーク卿らの法曹によって発展し、名誉革命によって確立する。

その後、コモン・ロー裁判所とエクイティ裁判所が、1873年1875年の裁判管轄法で統合され、抵触事例 (conflict case) ではエクイティが優越することになり、現在に通じるコモン・ローの特色は一通り完成するのである[注釈 4]
展開
英国法の継受と多様な法体系

歴史的には英国法に由来するコモン・ローは、現在では英国(スコットランドを除く)のみならず、多くの英語圏の国やイギリス連邦の国の法体系の基礎をなしている。具体的には、アイルランド共和国、アメリカ合衆国(ルイジアナ州プエルトリコを除く)、カナダケベック州を除く)、オーストラリアニュージーランド南アフリカインドマレーシアシンガポール香港等、かつて英国の植民地であったことがある国々はいずれも基本的にはそうである。

しかしながら、英国法を継受した国であっても、各国の事情に応じて、様々な展開を広げ英国のコモン・ローから分離する傾向を見せ始めている。例えば、インドは、コモン・ローの体系もイギリス法とヒンドゥー法の混合という特殊性があり、また、スコットランドは、大陸法であるとしばしば言われるが、実際には、ローマ法大全 (Corpus Juris Civilis) にまで遡る法典化されていない市民法の要素のみならず、教会法や1707年にイングランドと統合した後に受けたコモン・ローの影響とスコットランド独自の慣習が合わさった独特の体系を有するに至っている。

英国が他の帝国主義国家から奪取した植民地であったカリフォルニア州(スペイン法を継受)、ニューヨーク州(オランダ法を継受)、ケベック州・ルイジアナ州(フランス法を継受)や、南アフリカ(オランダ化されたローマ法を継受)等では、既に大陸法系の法体系を有していたため、大陸法の影響を強く受けた法典化が進められている。

特にアメリカ合衆国では、成文憲法典であるアメリカ合衆国憲法を制定したことと、連邦制を採用したことから、独自の発展が著しい。詳細は、アメリカ法を参照。
法典化

1966年に貴族院(イギリスの最高の裁判所)が自らの先例拘束性を緩和する旨の声明がだされた。判例法(広い意味のコモン・ロー)は、先例拘束性に支えられた不文の慣習法であることから、判例法の法的安定性を著しく損なうため、先例変更(overruling)については危惧する声が高かった。しかし、先例拘束性の厳格な運用と、社会の価値体系とのとの整合性を保つ為、単に判例から導かれる法準則をそのまま制定法や法典として成文化しただけであり、制定法は判例の追録ないし正誤表的な機能を果たす[5]と説明されている。

その場合、英国のコモン・ローを背景として策定された合衆国の制定法は、当時の英国のコモン・ローの伝統をふまえた解釈をすべきであると考えられている。それゆえ、大陸法のように文理の範囲内の解釈であれば当然許されるというものではなく、従前の判例法や慣習からみて当然のこととされるような暗黙の前提が数多くある。

その例は、刑事法の分野では容易に見出せる。英国では、刑事法の大部分がコモン・ローによって動いており、成文化されていないものが多い。これに対して、合衆国では、1750年頃から、各地の植民地(そして、後に各州)が、英国のコモン・ローの影響から離脱し始めたが、刑事法の法典化が完了している州が多い。しかしながら、前述のとおりその基礎となる諸概念は英国のコモン・ローに端を発しているために、今日の合衆国のロー・スクールで、1750年の英国で行われていた刑事に関するコモン・ローまでも教授する必要があるのである。

このようなコモン・ローの法典化というのは、コモン・ローの命題を一つの文書にまとめた成文法を議会が制定してゆく過程のことであり、これによって、いかなる命題が法として通用しているのかを確認するために法の限界に挑む者が新たに現れて彼に有罪判決が下されるのを待つ、という必要がなくなるわけである。
制定法による変容

以上のようなコモン・ローの法典化に対し、従前存在していた大陸法をコモン・ローに置き換えるための法典化がなされることもある。そのため、現在でもカリフォルニアや合衆国西部のいくつかの州には大陸法に由来する夫婦共有財産という概念が存在している[6]

カリフォルニア州の裁判所は、判例によりコモン・ローを形成するのと同様のやりかたでこうした法典の遺産を解釈により発展させ、コモン・ローの一拡張として取り扱ってきた。その最も著名な例が、リー対イエローキャブ事件判決(カリフォルニア州判例集第三シリーズ(1975年)804頁)であり、カリフォルニア州最高裁判所は、コモン・ローの伝統である寄与過失 (contributory negligence) の法理を法典化したカリフォルニア州民法典の条項があるにもかかわらず、比較過失(comparative negligence、過失相殺)という原理を採用したのである[7]


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