コモン・ロー
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アメリカ法において、各州を超えた連邦の「一般法」 (general law) という概念がフェデラル・コモン・ロー (federal common law) と称されたこともあるが、現在は判例によって否定されている。

なお、コモン・ローの「ロー」は、日本語の「法」、「法律」とかなり意味合いが異なるので注意が必要である。もともとコモン・ローは、中世のイングランドで対立する当事者の申立てを比べあわせて伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきたことに由来するが、コモン・ローを適用する際に用いられる論証の形式は、決疑論や事例判断として知られている。要するに、できる限り当事者双方に主張立証を委ね、裁判所は伝統や慣習、先例に照らして各論点ごとにいずれの当事者の論証が説得的であるかということに重点を置いてその事案を裁判すべきとされてきたのであり、その意味で裁判所は紛争の調停者であるといわれる。裁判所の中での議論を重視する審理態度は、制定法という裁判所の外から与えられる規範への適合性を重視するという、大陸法圏における審理態度と好対照をなしている。
コモン・ローの特質
法の支配コモン・ローにおける公法は当初は司法運用に関するもので、王国裁判所の確立により王国の一般的慣習がコモン・ローへと変質していった。このため、王国の一般的な慣習がコモン・ローにおける公法であるため、その慣習たるコモン・ローには「国王といえども法の下にある」とする「法の支配」つまり、「コモン・ローの支配」の原理が生じたのである。これは、1215年
ジョン王時にマグナ・カルタへの王の署名により最終的に確立したものとされる[注釈 1] 。なお、コモン・ローでは公法と私法の分化の不明確性が指摘される。大陸法は私法に重点が置かれ、かつ公法と私法が明確に区別されるが、コモン・ローではその分化が十分成熟でない[2]

司法権の独立13世紀にエドワード1世が裁判官を官吏から選ばずに弁護士の指導者の中から選び、行政から司法を分離したことにより始まるとされる。コモン・ローでは、当事者にそれぞれの真相を明らかにする十分な機会を与えれば、正義が最もよく達成されるとされた。このため、大陸法の裁判官は真実発見のために裁判官自身が証人尋問を行うなど中心的な役割を果たすのに対し、弁護士の指導者でもあるコモン・ローでの裁判官は、対立する当事者同士の仲裁者 (arbiter) としての役割を担った。この結果コモン・ローに独特な当事者主義が確立した。

陪審制コモン・ローを継受した国では、一般市民から構成された陪審によって有罪と表決されなければ、重罪について有罪の判決を与えられることはない。陪審の独立が確立したのは、1670年のBushel事件(en)である。

判例法主義ここでの判例とは将来の裁判を拘束する判決の先例のことであり、イギリスでは長い歴史を経て19世紀末に判例法体系が確立されたとされる。貴族院判決は最終審理裁判所(a final court of appeal)の判決であるため、その判決には先例として以後の裁判に対して拘束性が与えられる。全ての裁判所においてその判決以後、同一事実による裁判について先例と同一に判決させる判例となる。この判例は法的安定性を保つためその変更をイギリスの司法内部では絶対に許さない。

ローマ法からの疎隔ローマのブリテン征服は殖民のためではなかったため、他のヨーロッパの支配地のようにローマ法による政治組織や法律体制が確立されずブリテンの法文化の侵食がなかった。しかし、その後ローマ法の継受が国王によって画策されなかったわけではなく、ヘンリー8世オックスフォードケンブリッジにローマ法の研究のため王立講座を設け、そのため行政官や大権裁判所 (Prerogative Courts) ではローマ法法律家が活躍したが、コモン・ロー裁判所にはその影響力を及ぼしえなかった。一般にその理由として、第一に法曹を生み出す法学院の組織が伝統と多くの既得権を持っていた上、裁判所の組織の改変が事実上不可能であったこと。第二にコモン・ローの硬直化がエクイティーの成立で緩和されたため、他のヨーロッパ諸国やスコットランドにおいて達成されたローマ法の継受は成立しなかったためとされる。しかし、その最大の原因はヨーロッパ諸国ではラント諸侯が絶対的な支配階級となり絶対主義的な後期ローマ法の継受を進めたが、イギリスでは大諸侯が国王に対して反抗して成果を収め、固有の法習慣たるコモン・ローの擁護が政治的に有利であったからとの分析[3]がある 。

歴史

コモン・ローの歴史は、1066年ウィリアム征服王によって英国で封建制が確立したことに始まる。その意味でコモン・ローの歴史は、英国法の歴史でもある。詳細は、英国法を参照。

ノルマン征服以前のイングランドでは、シャー (shire) と呼ばれる州に設置された民会 (shire moot) が議会と裁判所としての機能を併有し、その民会の長 (ealdorman) は、シェリフと呼ばれる代官 (shire reeve) を置いて治世にあたっていた。そこでは共同体ごとに異なり、上層階級が気まぐれに押しつけることも少なくない不文の地域的慣習によって民衆は支配されていた。裁判所は仲間内の記録も残さない非公式の会議によって構成され、対立する当事者の申立てを比べあわせて慣習や常識に従って判断するのが通常であった。もし真偽不明で結論に達することができなければ、神判決闘によって決着がつけられた。神判は、糾問主義の審理で、真っ赤に熱した鉄器を運ばせたり、熱湯が煮えたぎる大釜の中から石を掴み出させたりして、もし被告人の傷が所定の期間内で治癒すれば、彼は無罪として釈放された。もし治癒しなければ、その後直ちに死刑が執行されるのが普通であった。シャーは、ハンドレッド (hundreds) と呼ばれる村に分かれており、各ハンドレッドにもまたそれぞれ裁判所が存在し、その構成員は犯人を告発・追跡する義務を負うなど警察的な機能を有していた。このハンドレッドの構成員の告発義務がやがて私人訴追主義・弾劾主義・当事者主義的訴訟構造の発展を促すことになる。

ウィリアム1世は、国王と国王を補佐するバロンと呼ばれる貴族からなる「王会」 (Curia Regis) を設置したが、これは民会と同様議会と裁判所としての機能を併有し、国王自身が主宰していたことから、「国王裁判所」と呼ばれていた。


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