コモロ
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^ かつてはコモロの首相(英語版)(1957年 - 2002年)、副大統領(英語版)(2002年 - 2019年)が設置されていた。

コモロ連合(コモロれんごう、フランス語: Union des Comores)、通称コモロは、インド洋コモロ諸島グランドコモロ島(ンジャジジャ島)、アンジュアン島(ヌズワニ島)、モヘリ島(ムワリ島)で構成される連邦共和制国家。コモロ政府はフランス領マヨット島(マオレ島)の領有権も主張している。海を隔てて西にはモザンビークがあり、東南にはマダガスカルがある。首都であるモロニはグランドコモロ島に位置している。

1975年7月6日、フランスから独立したものの頻繁にクーデターが発生し、1990年代には2島が独立宣言を行い国家解体の危機に陥った。その影響から経済が低迷し後発開発途上国および小島嶼開発途上国に指定されている。現在も近海ではたびたびシーラカンスが捕獲される。
国名

公用語による正式名称および略称は以下の通り。
正式名称


コモロ語: Udzima wa Komori

フランス語: Union des Comores

アラビア語: ??????????? ?????????‎ (al-Itti??d al-Qumur? / Qamar?)

略称


コモロ語: Komori

フランス語: Comores(コモール)

アラビア語: ??? ?????‎ (Juzur al-Qumur / Qamar、「諸島」の意味)

日本語の表記はコモロ連合。通称コモロ。公式の英語表記は Union of the Comoros。通称 Comoros(コモロズ)。

コモロはアラビア語の ???(カマル、月という意味)のなまったものである。

1975年から1978年までは、コモロ共和国(フランス語: Republique des Comores)、1978年から2001年までは、コモロ・イスラム連邦共和国(コモロ回教連邦共和国[4]フランス語: Republique federale islamique des Comores)という国名だった。
歴史詳細は「コモロの歴史(英語版)」を参照
独立前

コモロに初めてやってきた人々については諸説あるが、おそらくマレー人[5]またはバントゥー系民族[6]と考えられている。6世紀ごろにはマレー系の居住が確認されており、バナナココヤシカヌーなど多くの文化をコモロにもたらした[7]。その後、10世紀ごろからはアラブ人が移住しイスラム化が進むとともに、ザンジバル島やケニア海岸と同じスワヒリ文化が栄えた。1500年にはポルトガル人がこの島に上陸したもののすぐに姿を消した[8]

17世紀に入ると複数のイスラム系の小国家が興ったが、18世紀後半にはマダガスカルの海賊の襲撃を度々受けた[9]1841年にはフランスマホレ島を占領し、その後フランスは近隣諸島に影響を強めていき、1886年にはフランスが全コモロ諸島を保護領化した[10]

1952年には議会が置かれ、徐々に権限を拡大していった[11]。1958年にはそれまでマヨット島のザウジに置かれていた首都をグランドコモロ島のモロニに移転することが議決され、1960年には遷都が開始されたが、この過程で遷都に反対するマヨット島はほかの三島に対する反発を強め、対立が激化していった[12]。1960年代後半からはコモロでも自治拡大および独立運動が盛んになってきたが、マヨットでは他島に対する反発からフランス帰属が支持を得るようになっていった。1974年には独立に対する国民投票が実施され、3島では独立賛成派が多数を占めたものの、マヨットではフランス領残留派が勝利した[13]。この結果を受け、フランスはコモロの独立を了承したものの、各島でコモロ新憲法に対する投票を行うよう決定した[10]
独立と傭兵の跳梁

しかし3島側はこの決議を受け入れず、1975年7月6日には「コモロ国」としてフランスから一方的に独立を宣言し、アーメド・アブダラが大統領に就任した。コモロ政府側はマヨット島も新国家に含まれるものとして宣言を行ったものの、マヨット側はこれを受けて直ちにフランス残留を宣言し、この時点で分裂は決定的なものとなった[14]国際連合はコモロ側の主張を支持しフランスを非難したものの、翌1976年にはマヨットは住民投票を行い、改めてフランス残留を決定した[10]

一方、独立したコモロ政府はすぐに政治的動乱に見舞われた。独立して1ヶ月もたたない1975年8月3日に、社会主義者アリ・ソイリクーデターを起こし、アブダラ政権を倒した[15]。アブダラは地盤のアンジュアン島に逃れたものの、ソイリは白人傭兵ボブ・ディナールらを雇い入れてアブダラを追放し[16]、3島を完全に掌握した。ソイリ政権は急進的な改革路線を取り、旧弊の廃止や公務員の追放、政府の簡素化を行い、政治警察を組織して厳しい取り締まりを行った。この路線はすぐに破綻し、政治経済の停滞により社会的緊張は極度に高まった[17]

1978年、国外にいたアーメド・アブダラがボブ・ディナールを雇い入れ、クーデターでソイリ政権を崩壊させた。ソイリは殺害され、大統領に復帰したアブダラは新憲法を採択し、「コモロ・イスラム連邦共和国」に国号を変更した。アブダラ政権は一党独裁制を敷いて反対派を抑圧し、また経済も一層悪化したためクーデターが幾度も試みられたが、すべてディナールと傭兵たちによる大統領警護隊によって退けられた。しかしディナールらの専横は激しくなる一方で、アブダラは傭兵たちの排除を試みるようになった。この結果、1989年には大統領警護隊がアブダラ大統領を襲撃し、暗殺してしまった[10]

この傭兵たちのクーデターに対しフランスは軍事的な圧力をかけ、ディナールと傭兵らは国外へと出国し、翌1990年には大統領選挙が行われて最高裁判所長官のモハメド・ジョハルが大統領に就任した。ジョハル政権は1992年に新憲法を採択して複数政党制を導入したが、権力基盤は不安定でクーデター未遂がここでも数度発生し、政情不安は収まらなかった。この情勢を受け、追放されていたディナールが1995年に傭兵隊を率いて再び侵攻し、ジョハルを拘束して権力を握ったものの、即座にフランスが軍事介入を行って傭兵隊を降伏させた。ジョハルは大統領に復帰したものの、同月レユニオンに療養に出かけた際に首相がクーデターを起こして暫定政権を樹立し、結局は追放された[18]
分離運動と連合政府の成立

暫定政権はすぐに大統領選挙の実施に取りかかり、1996年にはモハメド・タキが選挙で勝利して大統領に就任した。しかしタキもまた経済問題を解決することができず、また出身であるグランドコモロ島優遇政策をとったため、1997年にはついにアンジュアン島及びモヘリ島が独立を宣言すると同時に、フランスに再植民地化を嘆願する状況となった[19]。これに対しタキはアンジュアン島に鎮圧軍を差し向けたものの敗北し、また全閣僚を解任して独裁を進めたが[20]1998年に急死した。タジディン(英語版)が大統領代理に就任したものの、翌1999年にはクーデターが勃発し、アザリ・アスマニ大佐が政権を掌握した[21]

2001年にはフォンボニ協定(コモロ和解に関するOAU枠組合意)の署名がおこなわれて新憲法が採択され、「コモロ連合」に国号が変更された。このとき、連合大統領は3島から輪番制で任命されることとなった。2002年の大統領選挙ではグランドコモロ島からアザリ大佐が当選し、2006年の大統領選挙ではアンジュアン島のアフメド・アブドラ・モハメド・サンビが当選した[22]。しかしアンジュアン島政府はコモロ当局に反発し、独自に自島の大統領選挙を実施したため中央政府との関係が悪化し、2008年にはアンジュアン島にアフリカ連合の部隊が武力介入して同島の支配権をコモロ政府に奪還した[23]。これを受け、2009年には各島の自治権の縮小と連合政府の権限強化、サンビ大統領の任期1年延長を柱とする憲法改正が国民投票で承認された。2011年にはモヘリ島からイキリル・ドイニン大統領が選出され、2016年にはグランドコモロ島からアザリ・アスマニ大統領が就任。


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