コモドール
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トラメル・テクノロジーはコモドールからスピンオフしたメンバーを多く抱えるとはいえ所詮新興企業であり、全国的な製造・流通・販売網を持たなかったが、トラミエルはアタリの持つ海外製造拠点と世界的販売網を利用するためにワーナーと交渉し、アタリのコンシューマ部門を獲得したのである。こうしてトラメル・テクノロジーはアタリコープとなった。

トラミエルが新会社アタリコープを立ち上げると、コモドールからアタリコープへと転職する管理職や研究者が続出したため、コモドールは同年7月末に元コモドールの技術者4人が企業秘密を盗んだとして訴えた。これはトラミエルが新たなコンピュータをリリースするのを妨害することを意図したものである。コモドールはトラミエルの新ハードに対抗しうるハードを出そうにも、ほとんどの技術者がトラミエルに付いて退職してしまったためにそのような開発力がなくなってしまい、とりあえずトラミエル側に訴訟を仕掛けると同時に、外部企業の買収の話を進めていた。ここで登場するのがAmiga社である。
Amiga vs. Atari ST

1983年ごろ、かつてアタリでAtari 800のビデオチップの開発などに携わったジェイ・マイナーは、アタリからスピンアウトしてAmiga社という小さな会社を設立し、Lorraineのコードネームで呼ばれる新型ホームコンピュータの開発を行っていたが開発資金が底をつき、新たな出資者を捜していた。ジェイ・マイナーは以前勤めていたアタリに資金提供を求め、当時はワーナーの子会社となっていたアタリの出資の元で開発を続行することになった[6]。その見返りとしてアタリはそのハードのチップを自社のゲーム機に1年間独占的に利用でき、さらに1年後にはそのハードをキーボードを追加した完全なコンピュータとして販売する権利も有する、という契約を結んでいた。「そのハード」とは言うまでもなく、後にAmigaとしてコモドールからリリースされることになるハードのことである。Atari MuseumはこのAtari社とAmiga社による契約書と、このAtari版Amigaが元々は1850XLDと呼ばれていたことがわかる技術文書を保管している。ちなみに当時アタリはディズニーと深い関係にあったため、アタリではこのハードのコードネームは Mickey、256KBのメモリ拡張ボードは Minnie とされていた[7]

その後、Amiga社は1984年春ごろにも資金難に陥り、さらなる出資者を捜し始めていた。そのころのアタリはすでにトラミエルとの買収話が進行しておりAmiga社を相手にしなかったため、Amiga社はコモドールとの話し合いに入った。話はコモドールがAmiga社を全て買い取るという方向でまとまり、コモドールは1984年8月にAmiga社を2500万ドル(現金1280万ドルと自社株55万株)で買収した。こうしてAmiga社はコモドールの子会社Commodore-Amiga, Incとなった[8]

コモドールはこの買収によってAmiga社の既存の契約(アタリとの契約も含む)が全て無効になると考えていた。しかしそううまくはいかなかった。アタリコープを創業してトラミエルが最初に行ったのは、アタリのもともとの従業員の大部分を解雇し、進行中の全プロジェクトをキャンセルすることだったが、同年7月末から8月初め頃に、トラミエルの部下が前年秋のアタリとAmiga社の契約書を発見。これを反撃のチャンスと見たトラミエルは、8月13日に「Amiga社とコモドールの契約は無効である」とコモドールを訴え返した。これもAmiga(およびコモドール)が似たようなテクノロジーを製品化することを妨害し、コモドールの企業買収(とそれによる次世代コンピュータの技術獲得)を無駄にさせることを意図したものである。

1985年初頭にはアタリコープが新ハードAtari 520STを約$800で発売。そして同年の秋、コモドールもAmiga社の開発した新型16ビットコンピュータをAmiga 1000としてUS $1295で市場に投入。Atari社の妨害のせいでAmigaのリリースがAtari STに半年ほど遅れを取る形とはなったが、両機は滞りなく販売され、共にホビーパソコンユーザーに熱狂的に受け入れられた。Amiga 500(1987年)

1980年代後半、Atari STとAmigaは熾烈なシェア争いを繰り広げた。そもそもアタリとコモドールのシェア争いは、1982年発売のコモドール64が1979年発売のAtari 800に挑んだときから始まっており、双方に熱狂的なファンが付いたものだが、このAtari STとAmigaにも双方に熱狂的なファンがつき、「聖戦」 ("holy wars") と称する貶し合い(フレーミング)が繰り広げられた。

1987年発売のAmiga 500の大ヒットを見る限りでは、この聖戦はどうやらコモドール信者の方に分があった様子であるが、市場はMicrosoft Windowsを搭載したPC/AT互換機が制覇しつつあり、最終的には両者ともマイクロソフトに敗れ去った。一方、泥沼化した一連の訴訟合戦は最終的に法廷外和解として1987年に決着した。「ビジネスは戦争である」というトラミエルの経営戦術はまたしても成功を見たと言えなくもないが、結局この戦いに勝者はなく、その後のコモドールの運命をも決定付けた。
没落、そして倒産

1970年代から1980年代初めにかけてコモドールは業界をリードする企業の1つと見なされていた。VIC-20やC64のころは積極的なマーケティングが行われたが、それらの成功はむしろ低価格にあった。が、トラミエル社長が失脚した頃から保守的な風土になり、ハードの価格も上昇し、かつての革新性は無くなっていった。広告を駆使した徹底的な販売攻勢をすることもなくなり、旧来の代理店で細々と販売される状態になっていた。

1980年代の終わり頃にはパソコン市場はIBM PCMacintoshが占有するようになっていた。コモドールのAmigaはそれらに対抗できず、中途半端なマーケティングで、市場が支持しないCommodore CDTV(1991年)のような失敗ハードに固執したりしていた。

1990年代初め、コモドールは25 MHzのMC68030を搭載したAmiga 3000をすでに市場に投入していたにもかかわらず、7–14 MHzのMC68000を搭載した機種をまだ主力に据えて販売していた。一方PCの方では33 MHzのIntel 80486にハイカラーのGPUとハイクオリティなサウンドカードであるSoundBlasterを搭載した互換機が入手できたし、少々値は張るがより高い性能の製品を手に入れることもできた。1985年ごろのIBM PCはIntel 80286EGA画質と初歩的なサウンドしか持ちえず、Amigaよりも格段に劣っていたものだが、今やAmigaにはその頃の革新性はなかった。

1992年にAmiga 500の後継機としてAmiga 600が発売された。しかし、テンキー、拡張スロット、SCSI、その他コスト削減のためにあらゆるものを削除したデザインは、Amiga 500と比べて明らかに退化していた。そのため、あまりの不人気のために1年たたずに販売中止となった。この頃より、映像や音楽の制作でAmigaを使っていた人々はIBM PCやMacintoshに流れ、ゲーム用途でAmigaを使っていたゲーマーは専用のゲーム機に流れて行くようになった。Amiga CD32(1994年)

1992年にAmiga 4000とAmiga 1200が発売され、AmigaはようやくIBM PCに肩を並べるところまで復帰した。これらの機種にはIBM PCやMacintoshと比べても遜色ないハイクオリティなマルチメディア性能を発揮する新開発のグラフィックス用チップセット (AGAチップセット) が搭載されていたが、しかしIBM PCとMacintoshの市場シェアはすでに手がつけられないほど拡大していた。ソフト開発者もAmigaを見限っていた。独自設計されたAmigaのチップセットはコモディディ化されたIBM PCのチップセットよりはるかにコストがかかり、コモドールの利益率を圧迫した。AGAチップセットは確かにAmigaのオリジナルのチップセットよりも高性能であったが、マルチメディア・コンピューティング市場の覇権を取りもどすというコモドールの目標は達成できなかった。

Amigaがソフト開発者から見限られた理由のひとつに違法コピーの蔓延を挙げるものがいるが、これは議論の余地がある。

1994年に社運をかけて発売された32ビットのCD-ROMベースのゲーム機、Amiga CD32は失敗に終わった。1990年代初めより、コモドールはサービスおよび修理をワング・ラボラトリーズに委託していた。1994年の時点でいまだ利益が出ているコモドールの支社はドイツイギリスのみとなっていた。

1994年4月29日にコモドールは倒産し、同社の資産が清算された。ウェストチェスターのかつての本社ビルは、今ではQVCが本社として使っている。
その後コモドールの最高到達点はAmiga 1000(1985年)だった。Amigaはあまりにも時代に先行していたため、誰も(コモドールのマーケティング部門でさえ)その真価を完全には把握していなかった。Amigaが最初のマルチメディア・コンピュータだったことは今から見れば明らかだが、当時そのグラフィックスやサウンドの重要性を把握していた人は少なく、単なるゲーム機として扱われた。9年後の現在、ベンダーは1985年当時のAmigaのようなシステムを作るのに苦労している。Byte Magazine, 1994年8月

コモドールの支社のうち、財政が健全だったイギリス支社のCommodore UKだけが唯一倒産を免れ、他の支社や旧親会社のコモドール本社の資産までも買収して事業を継続し、Amigaの在庫を売ったりコンピュータ用スピーカーなどの周辺機器を製造していた。しかしCommodore UKの財政基盤は実のところ脆弱であり、旧コモドールの資産、特にAmigaに関する特許をDellゲートウェイなどが狙っていた。最終的にCommodore UKが持つ旧コモドール社の資産はドイツのPC企業 Escom が獲得することになり、1995年中ごろにCommodore UKを吸収合併した。

Escomの目的はAmigaよりもむしろコモドールのブランド名であり、その使用に当たってCommodore International に1400万ドルを支払った。同社はコモドールとAmigaを別々の部門とし、コモドールブランドのPCをヨーロッパで販売。しかし事業拡大のしすぎで損失を出し始め、1996年7月15日に倒産し、清算された。

その後、旧コモドールの資産はいくつかに分割されたが、それらを受け継いだ企業がかつてのコモドールのような成功を収めた例はなく、徐々に時代の表舞台からその名を消す事となった。ただし「Commodore」のブランド名や、ゲームハードとしてのC64とAmigaなどは現在も根強い人気があり、主に懐古趣味者向けにその名を冠した製品が出されている。また、Amigaのハード (AmigaOne) とOS (AmigaOS) の開発は細々とながら継続されている。以下に現在までの主な動向を記す。
コモドールブランド
1997年9月、コモドールのブランド名はオランダのコンピュータ企業Tulip Computers NVが獲得。Tulipは2003年7月11日、コモドールのブランド名を復活させることを発表し、新たなC64関連製品などを発売するとし、コモドールのブランド名を無断で使っている商用ウェブサイトなどを訴える用意があるとした。2004年6月18日、TulipはCommodoreWorld.comというサイトを開設し、子会社Commodore International BVに運営させることになった。2003年後半、中華人民共和国のTai Guen Enterpriseがコモドールのブランド名を使った低価格のMP3プレーヤーを主にヨーロッパで販売したが、Tulipとこのデバイスとの関係は不明である。2004年7月、Tulipはコモドールのブランド名を使った一連の新製品を発表した。fPETというUSBメモリ、mPETというMP3プレーヤーとデジタルレコーダー、eVICという20GBの音楽プレーヤー、C64 DTVである。2004年後半、Tulipはコモドールのブランド名を Yeahronimo Media Ventures に2200万ユーロで売却[9]。数カ月の交渉の末、2005年3月に売却が完了した。Commodore Gamingは2005年、Commodore International Corporationからコモドールのブランド名を取得してゲームPC市場でそのブランド名を使用すべく創設された[10]
モステクノロジー
モステクノロジーを前身とするCommodore Semiconductor Groupはかつての経営者に買い戻され、1995年にはGMT Microelectronicsと改称され、コモドールが1992年に閉鎖したペンシルベニア州ノリスタウンの工場で生産を行った。1999年には従業員数183名となり、2100万ドルの売り上げを得るまでになっていた。しかし土壌を汚染する公害を出していることが発覚したため、2001年にアメリカ合衆国環境保護庁が工場の閉鎖を命じた。GMTは事業を停止し、清算された。
Amiga
Amigaの所有権に関しては、1995年にその権利を獲得したドイツのEscomを皮切りにいくつかの会社を転々とし、1997年にはアメリカのPC互換機メーカーゲートウェイ、そして2000年にはゲートウェイの元従業員が創業したAmiga, Inc.へとそのライセンスが移った。2004年3月15日、Amiga, Inc.はAmiga OSの過去と将来の全バージョンについての権利(他の知的財産権は含まない)を2003年4月23日にItec, LLC.に移管したと発表。Itecは後にKMOS, Inc.に買収された。


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