コメニウス
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1630年『母親学校の指針』(出版は1633年) [1]

1631年『開かれた言語の扉』『教授学』『甦るハガイ』 [1]

1632年プシェロフ兄弟教団の監督に選ばれ、同時に教団の執事になる。パトロンのスウェーデン王グスタフ2世戦死。同じくパトロンのボヘミア王フリードリヒ5世も死亡 。[1]

1633年ラテン語教科書『前庭』『自然学綱要』

1636年レシュノの領主ラファエル・レシュチーンスキ、老カレル・ジェロチーンが死亡 。[1]

1637年ハートリブによって『コメニウスの汎知学の試みの序曲』オックスフォードで出版 。[1]

1639年ロンドンでコメニウスの『汎知学の先駆』出版 。[1]

1641年イギリス渡航 。リンカーン主教で後にヨーク大主教となるジョン・ウィリアムズと会談。『光の道』(出版は1668年) [1]

1642年春革命的市民戦争によって活動できなくなる。フランス宰相リシュリューからの招請を拒絶 。オランダとスウェーデンの商人ルイ・デ・ヘールからスウェーデンへの招待。エンデゲストでフランスの哲学者デカルトと会談 。パトロンのデ・ヘール、クリスチーナ女王、宰相オクセンシェルナと議論 。スウェーデン領のエルビングに移住 。[1]

1643年ペトル・フィグルスをスウェーデンに派遣 。三女誕生 。[1]

1644年エルビングのギムナジウムの教授となる。この頃『人間に関わる事柄の改善についての総審議』に着手 。[1]

1646年息子ダニエル誕生。『最新言語方法』(出版は1648年頃) [1]

1646年ペテロ・フィグルスとスウェーデンへ。宰相オクセンシェルナや女王クリスチーナと討論。[1]

1647年『ボヘミア教会の迫害の歴史』 エルビンクからレシュノへ帰還 。[1]

1648年夏教団主席監督に選出される。[1]

1649年ヤナ・ガユソヴァーと三度目の結婚 (2人目の妻とは前年死別)[1]

1650年『死に行く母、ボヘミア兄弟教団の遺言』『独立派、永遠の混乱の原因』。レシュノで兄弟教団の宗教会議。教団を解体せず、維持に努めることを決定。ラーコーチ家の招請によりハンガリーのシャロシュ・パタクへ。5月にレシュノ帰還 。10月シャロシュ・パタクのラテン語学校の改革を委ねられる 。[1]

1651年ドラビークの預言 。『汎知学校』の構想出版。ジクムント侯に未刊の書『ナタンからダビデへの秘話』献上 。[1]

1652年パトロンのルイ・デ・ヘールが死亡。[1]ローレンスが志を継ぎ、支援継続。

1654年春『民族の幸福』、ゲオルク・ラーコーチ二世に献呈。『演劇学校』(出版は1656年シャロシュ・パタクで)6月シヤロシユ・パタクを離れレシュノへ帰還。[1]

1655年末『カール・グスタフへの称賛』出版 [1]

1656年レシュノの占領と焼き打ち シレジアから、フランクフルト経由でオランダへ。[1]

1657年アムステルダムで『教授学著作全集』出版 。預言集『闇の中の光』出版 。[1]

1658年ニュルンベルクで初の挿絵入り教科書『世界図絵』出版 [5]

1661年『モンタヌス宛の手紙』 [1]

1662年『人間に関わる事柄の改善についての総審議』の 最初の二巻『汎覚醒』と『汎啓明』出版 [1]

1665年預言集『闇からの光』『エリヤの叫び』執筆 開始[1][1]

1666年パトロン、ローレンス・デ・ヘールの死 [1]

1667年アムステルダムで『平和の天使』出版 [1]

1668年『光の道』『唯一必要の事』 。サミュエル・マレジウスとの論争をし『兄弟の警告の継続』を執筆 。[1]

1670年1月弟子であり娘婿であるペトル・フィグルス死亡。[1]

1670年11月15日アムステルダムで死亡。ナールデンにある改革教会の寺院に埋葬される 。[1]
現代教育への貢献


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