コムネノス王朝
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善良なるヨハネスヨハネス2世コムネノス

「善良なるヨハネス」と呼ばれて国民に尊敬された長男のヨハネス2世も贅沢を慎み、父の政策を継承して各地へ親征して戦いを進めて小アジアの沿岸部をほぼ全て奪回し、アンティオキア公国に宗主権を認めさせるまでに帝国の勢威を回復した。また北方から侵攻してきたペチェネグ族をベロイアの戦いで(Battle of Beroia)壊滅させ、ハンガリー王国の介入を退けた。

こうして初期の皇帝の治世に帝国は東地中海の大国の座を取り戻し、周囲に帝国の威光を示すことに成功した。首都コンスタンティノポリスは国際交易都市として繁栄し、文化も前時代の「マケドニア朝ルネサンス」を引き継いで古典の研究が進み、文学・美術などが栄えた。
マヌエル1世の野望と挫折マヌエル1世コムネノス

こうした繁栄を受けて3代目の皇帝マヌエル1世コムネノスは、古代ローマ帝国の復興を目指してイタリア遠征キリキアシリア地方への遠征、神聖ローマ帝国との外交戦を繰り広げ、盛んに建築活動を行なった。しかしマヌエル1世の積極的な外交政策や享楽的な生活は財政支出の増大を生んで帝国の財政を悪化させた。また祖父アレクシオス1世の代から特権を得ていたヴェネツィアの増長ぶりを見たマヌエルは、1171年にヴェネツィア人の一斉逮捕を行ったために、関係が悪化し、のちの第4回十字軍を生む結果となる。内政面でもコムネノス・ドゥーカス一門の軍事貴族は代を経るにしたがって人数が増加するとともに、各地に根付いて強大化し、中央政府から一定の独立性を保持して、あたかも封建領主のようにふるまった。このため皇帝も貴族たちを統御しきれず、なかには半独立状態になる者まで現れた。数次にわたる十字軍と首都市民との軋轢も次第に深まり、軍事協力の見返りとしてヴェネツィアやジェノヴァに貿易特権を与えたことで国内の商工業は衰退し、関税収入も失われた。

さらに軍事面でも1176年小アジアのミュリオケファロンの戦いルーム・セルジューク朝に惨敗し、帝国の威信は失墜した。神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世は東ローマ皇帝を「皇帝」として認めず「ギリシャ人の王」と呼ばれる屈辱を味わうことになる。こうして失地回復を果たせないまま、東ローマ帝国の国力を使い尽くした状態でマヌエルは没した。アレクシオス1世とヨハネス2世によって取り戻されたかに見えた帝国の繁栄は再び失われ、衰退への道をたどることになったのである。

マヌエルの死後、マヌエルの未亡人マリアの後見のもと、マヌエルとマリアのあいだに生まれた息子のアレクシオス2世が即位したが、アレクシオス2世はまだ幼く、クーデタで政権を掌握したマヌエルの従兄弟アンドロニコス1世コムネノスに帝位を奪われて、母親ともども殺害されてしまった。
アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉

アンドロニコスは強権的な統治で国内を改革し、大土地所有貴族を抑えて帝国の支配を再建しようとしたがうまくいかず、ついには恐怖政治を行って反抗する高官を次々に処刑したために有能な人材が失われた。1185年、西方から侵入したシチリア王国軍が帝国第2の都市テッサロニキを陥落させて首都に迫ると、パニックに陥った首都市民はアレクシオス1世の娘の孫であるイサキオス・アンゲロスを擁して反乱を起こし、アンドロニコス1世は廃位され、街頭で怒り狂った市民たちの手で虐殺された。以後帝国はかつての栄華を取り戻すことはなかった。ただし、アンゲロス家はもちろん、その後帝位を世襲したラスカリス家パライオロゴス家はいずれもコムネノス家との姻戚関係を足がかりに帝位を獲得したものである。

なお、アンドロニコスの孫アレクシオスとダヴィドはアンドロニコス1世が殺されたときに母に連れられてコンスタンティノポリスからグルジアのタマルの宮廷へ逃げ、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス陥落の後に、小アジア北東部のトレビゾンド(現在のトルコ・トラブゾン)を都としてトレビゾンド帝国を建国、皇帝を宣言した(アレクシオス1世)。トレビゾンド帝国は1461年オスマン帝国に滅ぼされるまで、東ローマ帝国本体よりも長く存続した。
コムネノス王朝皇帝一覧

アレクシオス1世コムネノス(1081年 - 1118年) : イサキオス1世コムネノスの甥


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