コミンテルン
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別名は第三インターナショナル[5][6](だいさんインターナショナル)、第三インター[5](だいさんインター)、国際共産党[2][7](こくさいきょうさんとう)、コミンターン[8][9](コムミンターン[9])、共産党インタナショナル[8]
概説

「コミンテルン」とは正式名称の「共産主義インターナショナル」(ロシア語: Коммунистический Интернационал、カムニスチーチェスキイ・インテルナツィアナール、英語: Communist International)の略称。

1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第7回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した[10]。前身の組織として第一インターナショナル第二インターナショナルが存在する。

第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスで開いたツィンマーヴァルト会議がコミンテルンの源流である。十月革命後の1919年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。

当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国革命運動を支援する、という使い分けがなされた。しかしウラジーミル・レーニン死後にスターリン一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党ソ連外交政策を擁護するのが中心になっていった。その一方、同じ第二インターナショナルの系譜に属する社会民主主義政党には厳しい姿勢をとりつづけ、1928年夏のコミンテルン第6回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりを強調する「社会ファシズム論」が登場した。1930年代前半よりドイツで台頭する国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の急伸をまえに、ドイツ共産党が社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党(SPDの略称で知られる中道左派リベラル政党)との対立にあけくれたことは、ナチ党の権力掌握を許す一因となった。

1935年のコミンテルン第7回大会では反ファシズムを最優先課題として多様な勢力と協調しようとする人民戦線戦術を採択した。スペインフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。独ソ不可侵条約の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。

独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がイギリスやフランス、さらにアメリカ合衆国などとともに連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。
歴史「コミンテルンの年表」も参照
レーニン時代「日支闘争計画#レーニンの敗戦革命論」および「革命的祖国敗北主義」も参照
設立「ウラジーミル・レーニン#コミンテルンの創設」も参照

第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党国際主義を放棄して「祖国防衛」を支持したために瓦解した。1914年8月、ドイツ社会民主党の国会議員団は「われわれは危機の瞬間にあって祖国を見捨てるようなことはしない」[11]と声明して軍事公債に賛成投票した。イギリスでは労働党アーサー・ヘンダーソン、ジョン・ホッジとジョージ・バーンズ、フランスでは社会党ジュール・ゲードとマルセル・サンバが挙国一致内閣に入閣した。

反戦派はスイスのツィンメルワルトで1915年9月に国際会議(ツィンメルワルト会議)を開き、国際主義を復活させようとした。しかしツィンメルワルト会議に集まった社会主義者らも十分に意見が一致したわけではなく、平和主義的な右派と革命的な左派に分かれた。左派の中心となったボリシェヴィキ排外主義者日和見主義者と絶縁して第三インターナショナルを設立することを主張した[12]

レーニンは、1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけたのに対抗して、外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンに第三インターナショナル設立の準備を始めるよう指示した[13]。1919年1月に39の党やグループにあてた創立大会への招待状が発表され、同年3月にモスクワで会議が開かれた。54名の代議員のうち、35名が19の組織やグループを代表して議決権を持っていた。国外から参加したのは5名だった。ドイツ共産党を代表して出席したフーゴ・エーバーラインは、明確に組織を代表して参加している代議員はごくわずかで、多くはグループの代表にすぎないことを指摘し、第三インターナショナルの即時創立に反対した[14]。しかしその反対を押し切る形で創立が決議された。

大会は指導機関として「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」執行委員会を設置すること、および執行委員会は5名からなるビューロー(事務局)を選出することを決めた。グリゴリー・ジノヴィエフが初代の議長となった。
21ヶ条の加入条件と急進主義批判

コミンテルンはボリシェヴィキの主導によって創設され、運営された。加盟政党の中で革命を成功させたのはボリシェヴィキだけだったため、その地位は圧倒的なものとなった。一方、ロシア革命十月革命)の成功は様々な勢力をコミンテルンにひきつけた。第一次世界大戦時に自国政府を支持し、レーニンに厳しく批判された社会民主主義者(ドイツの独立社会民主党やフランス社会党など)が、第二インターナショナルを再建する試みが失敗したこともあってコミンテルンへの加盟を求めてきた。また、ボリシェヴィキに影響された極端に左翼的な潮流も登場した。ドイツ共産党内で議会に対するボイコット戦術や反動的な労働組合からの脱退を主張し、1920年4月に分裂してドイツ共産主義労働者党を創設した勢力が典型例である。

社会民主主義勢力に対しては、ボリシェヴィキはコミンテルンの加入条件を厳格化することで対応しようとした。1920年のコミンテルン第二回大会で採択された21箇条の加入条件には、内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)、党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)、社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)、コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)などが盛り込まれた。このときプロフィンテルンの創設も決定されている。

この加入条件は必然的にヨーロッパの諸党の分裂をもたらした。ドイツでは1920年10月に独立社会民主党が分裂し、その左派とドイツ共産党が合同して同年12月に統一ドイツ共産党を結成した。


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