コミンテルン
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ナチス・ドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[28]。フリッツ・プラッテン(英語版)は1942年にニャンドマで銃殺され[29]、インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア(英語版))、朝鮮、メキシコイラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル人民革命党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。概して、欧米の民主主義国家の共産党指導者は粛清を免れ、ファシズムや植民地の共産党指導者が粛清された。レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った[30]
日本共産党とコミンテルンテーゼ

1922年日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン日本支部となる)[31]

22年テーゼ(草案)
1922年にコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から正式な綱領(テーゼ)とはしなかったが、理論的に承認した(1923年)。

27年テーゼ
関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。

31年政治テーゼ草案
コミンテルンのゲオルギー・サファロフ(元ジノヴィエフ派、後に粛清)により執筆され、当面する日本革命を「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」とした。

32年テーゼ
コミンテルンと片山潜野坂参三山本懸蔵らの討議を経て、1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の新たな活動方針になった。

1936年
1935年のコミンテルン第7回大会で採択された人民戦線に基づき、野坂参三・山本懸蔵が「日本の共産主義者への手紙」を執筆。だが日本共産党の党組織はすでに崩壊していたため影響力は無に等しかった。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) - インターナショナル#第三インターナショナル コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b c 大辞林 - 第三インターナショナル コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1022頁。ISBN 4-06-203994-X
^ デジタル大辞泉 - だいさん‐インターナショナル【第三インターナショナル】 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ デジタル大辞泉 - こくさい‐きょうさんとう〔‐キヨウサンタウ〕【国際共産党】 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b 『新修百科辞典』「だいさんインタナショナル」NDLJP:1234138/1346
^ a b 『大思想エンサイクロペヂア』25NDLJP:1217507/68
^ 『コミンテルン資料集 第6巻』村田陽一編訳、大月書店、1983年、548ページ
^ 山本統敏編『マルクス主義革命論史2 第二インターの革命論争』、紀伊國屋書店、1975年、504ページ
^ レーニン『社会主義と戦争』、『レーニン全集』第21巻、大月書店、1957年
^ 『レーニン全集』第42巻、大月書店、1967年、132頁
^ 中村丈夫編『マルクス主義革命論史2 第三インターとヨーロッパ革命』、紀伊國屋書店、1975年、94ページ
^ ケヴィン・マクダーマット、ジェレミ・アグニュー『コミンテルン史』、大月書店、1998年、50-51ページ
^ B・ラジッチ/M・M・ドラチコヴィチ『コミンテルンの歴史』、三一書房、1977年、366ページ
^ 「戦術についてのテーゼ」、『コミンテルン資料集』第一巻、大月書店、1978年、421ページ
^ 「労働者統一戦線について、ならびに第二、第二半およびアムステルダム・インタナショナルに所属する労働者、さらにアナルコサンディカリスム的諸組織を支持する労働者にたいする態度についてのテーゼ」、『コミンテルン資料集』第二巻、大月書店、1979年、95ページ
^ Duncan Hallas The Comintern, chapter 5
^ Duncan Hallas The Comintern, chapter 6; Nicholas N. Kozlov, Eric D. Weitz "Reflections on the Origins of the 'Third Period': Bukharin, the Comintern, and the Political Economy of Weimar Germany" Journal of Contemporary History, Vol. 24, No. 3 (Jul., 1989), pp. 387-410 ⇒JSTOR
^ コミンテルン第六回大会開く『東京朝日新聞』昭和3年7月19日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p362 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論(三田村武夫 1950, p.37)
^ 三田村武夫 1950, pp.41-43
^ M.V.S. Koteswara Rao. Communist Parties and United Front - Experience in Kerala and West Bengal. Hyderabad: Prajasakti Book House, 2003. p. 47-48
^ 『特高月報』内務省警保局保安課 1935年8月
^ Institute of Marxism-Leninism of the CPCz CC, Institute of Marxism-Leninism of the CPS CC. An Outline of the History of the CPCz. Prague: Orbis Press Agency, 1980. p. 160
^ 『世界の戦慄・赤化の陰謀 』東京日日新聞社〔ほか〕、1936年 75-76頁


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