コミンテルン
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主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティヴィルヘルム・ピークドミトリー・マヌイリスキーによった[26]。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した(反ファシズム統一戦線)。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルム1936年選挙とともに重要な結果となる。

ゲオルギ・ディミトロフ

パルミーロ・トリアッティ

ヴィルヘルム・ピーク

ドミトリー・マヌイリスキー

統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本ドイツポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリスフランスアメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている[27]コミンテルン指令1937年尾崎秀実#諜報活動『米国共産党調書』ヴェノナ文書も参照)。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日日独防共協定を調印した。
大粛清とコミンテルンフリッツ・プラッテンホルローギーン・チョイバルサン

1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。ナチス・ドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[28]。フリッツ・プラッテン(英語版)は1942年にニャンドマで銃殺され[29]、インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア(英語版))、朝鮮、メキシコイラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル人民革命党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。概して、欧米の民主主義国家の共産党指導者は粛清を免れ、ファシズムや植民地の共産党指導者が粛清された。レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った[30]
日本共産党とコミンテルンテーゼ

1922年日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン日本支部となる)[31]

22年テーゼ(草案)
1922年にコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から正式な綱領(テーゼ)とはしなかったが、理論的に承認した(1923年)。

27年テーゼ
関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。

31年政治テーゼ草案
コミンテルンのゲオルギー・サファロフ(元ジノヴィエフ派、後に粛清)により執筆され、当面する日本革命を「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」とした。

32年テーゼ
コミンテルンと片山潜野坂参三山本懸蔵らの討議を経て、1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の新たな活動方針になった。

1936年
1935年のコミンテルン第7回大会で採択された人民戦線に基づき、野坂参三・山本懸蔵が「日本の共産主義者への手紙」を執筆。だが日本共産党の党組織はすでに崩壊していたため影響力は無に等しかった。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) - インターナショナル#第三インターナショナル コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b c 大辞林 - 第三インターナショナル コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1022頁。ISBN 4-06-203994-X
^ デジタル大辞泉 - だいさん‐インターナショナル【第三インターナショナル】 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
^ a b 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年10月15日閲覧。


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