コミンテルン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1928年2月9日から2月25日までモスクワで開催されたコミンテルン執行委員会第9回会合(Plenum)には27か国から92名の代表が参加し、いわゆる「第三期」(Third Period)を開始し、それは1935年まで続けられる予定であった[20]。コミンテルンは資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること及び全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左(Ultra-left)路線であることといったことを宣言している。特にコミンテルンは全ての穏健な左翼会派を「社会主義ファシスト」と表現して、共産主義者は穏健な左翼会派の破壊のために尽力するよう主張した。1930年以後のドイツにおけるナチの活動拡大により、この姿勢はドイツ社会民主党を主要な敵として扱うドイツ共産党の戦術(社会ファシズム論)を批判していたポーランド人共産主義者で歴史家のアイザック・ドイッチャーなど多くの者と多少の論争となった。

第6回コミンテルン大会は1928年7月17日から9月1日にかけてモスクワで開催され、57か国から532名の代表が出席した。開会演説はニコライ・ブハーリンが行い、次いでプハーリン、スターリン、モロトフ、テールマンなど28人が幹部に選ばれた[21]

しかし大会はスターリンが直接に指導し、ブハーリンの「日和見主義的立場」を除き、資本主義戦後発展第三期は資本主義的安定の矛盾を発展させ資本主義的安定をさらに動揺させ、資本主義の一般的危機を激化させるべきとする第三期論を決定した。「日支闘争計画#コミンテルン1928年テーゼ」も参照

共産主義者の帝国主義戦争への反対運動は一般平和主義者の戦争反対運動(反戦運動)とは根底が異なり、共産主義者は戦争反対運動をブルジョワ支配階級の絶滅を目的とする階級闘争に必要なものとテーゼに記され、ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論[22]に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった[23]日支闘争計画#レーニンの敗戦革命論」、「革命的祖国敗北主義」、「プロレタリア独裁」、「クラーク撲滅運動#スターリンのクラーク絶滅政策」、および「ホロドモール」も参照

この大会においても植民地の世界における統一戦線の方針が修正されている。太平洋労働組合書記局が創立された1927年中国国民党は中国の共産主義者を攻撃し(上海クーデター)、そのため植民地の国々における地元ブルジョワジーとの同盟を形成するという方針の見直しにつながった。しかし、大会では中国国民党を一方とし、インドのスワラジ党(Swaraj Party)とエジプトワフド党を信頼できない同盟ながら敵ではないと考慮して他方とした区別がなされた。大会はインドの共産主義者に地元のブルジョワジーと英国の帝国主義者間の矛盾を利用することを求めた[24]
第7回コミンテルン世界大会と人民戦線「en:Seventh World Congress of the Comintern」も参照

7回目であり最後の大会は1935年7月25日から8月20日にかけてモスクワで開催され、そこには57か国、65の共産党から510名の代表が出席している。会議はファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定している。スポーツ宗教などの活動にも浸透することが求められた[25]

主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティヴィルヘルム・ピークドミトリー・マヌイリスキーによった[26]。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した(反ファシズム統一戦線)。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルム1936年選挙とともに重要な結果となる。

ゲオルギ・ディミトロフ

パルミーロ・トリアッティ

ヴィルヘルム・ピーク

ドミトリー・マヌイリスキー

統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本ドイツポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリスフランスアメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている[27]コミンテルン指令1937年尾崎秀実#諜報活動『米国共産党調書』ヴェノナ文書も参照)。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日日独防共協定を調印した。
大粛清とコミンテルンフリッツ・プラッテンホルローギーン・チョイバルサン

1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。ナチス・ドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[28]。フリッツ・プラッテン(英語版)は1942年にニャンドマで銃殺され[29]、インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア(英語版))、朝鮮、メキシコイラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル人民革命党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。概して、欧米の民主主義国家の共産党指導者は粛清を免れ、ファシズムや植民地の共産党指導者が粛清された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:90 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef