コミンテルン
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そのため、ソヴィエト政府の財政資金も利用して[15]ヨーロッパの共産主義運動を積極的に援助した。

とりわけ重要視されたのがドイツだった。1918年11月に社会民主党政権が成立して以後、1919年のバイエルン・レーテ共和国、1920年のカップ一揆と政治的激動がつづき、勝利が近いと考えられた。

1921年3月のドイツにおける三月行動はコミンテルンが組織的にヨーロッパの革命を援助した最初の例となった[16]。まず、コミンテルンは統一ドイツ共産党議長パウル・レヴィを辞任に追いこんだ。イタリア社会党に対するコミンテルンの分裂工作に反対したことが理由であった。そして新たな指導部を「攻勢」すなわち武装闘争へと駆り立てた。クン・ベーラをリーダーとするチームをドイツに派遣し、統一ドイツ共産党を監督した。しかし三月行動は大衆的支持を得られないままあっさりと粉砕された。

1923年のルール占領はドイツの政治危機を呼び起こし、統一ドイツ共産党を復活させた。コミンテルンは武装蜂起の方針を決め、ドイツの党の指導部をモスクワに呼びよせて蜂起の詳細な計画を作成した。しかし同年10月の蜂起は直前に中止が決定され、不発に終わった。連絡ミスで蜂起を開始したハンブルクでも戦闘は数日で終わり、統一ドイツ共産党は非合法化された。
労働者統一戦線「統一戦線」も参照

ほかのヨーロッパ諸国でもボリシェヴィキが期待したような革命は起こらず、第一次世界大戦後の混沌とした政治状況は安定化へと向かった。コミンテルンは方針転換を余儀なくされた。1921年6月から7月にかけて開かれた第3回コミンテルン世界大会(ロシア語版)は、「攻勢」戦術を否定し、まず労働者階級の多数者を獲得することを強調する戦術テーゼ[17]を採択した。この新しい方向性は、社会民主主義者との共同行動を呼びかける「労働者統一戦線」戦術として同年12月に定式化された[18]。この大会では、コミンテルン執行委員会国際連絡部も創設された。また、同年10月には東方勤労者共産大学も開校した。
スターリン時代
第二期レーニン(左)とスターリン
(ただし、後にこの写真は合成されたものであると判明した)ニコライ・ブハーリン

1924年レーニンが亡くなり、翌年には世界革命に直結する活動からソ連政府の防衛への変更が示された。この年、スターリンは「一国社会主義論」を掲げ、それはニコライ・ブハーリンが彼の1925年4月のパンフレット「Can We Build Socialism in One Country in the Absence of the Victory of the West-European Proletariat?」(我々は西欧プロレタリアートの勝利なしに一国の社会主義を建設できるか?)で詳しく説明している。スターリンの1926年1月における記事「On the Issues of Leninism」(レーニン主義の問題について)の後、国家方針としてまとめられた。

ドイツにおけるスパルタクス団蜂起ハンガリー・ソビエト共和国の失敗、さらに例えばファシストの準軍事組織黒シャツ隊がストライキを中止させ、1922年ローマ進軍に続いて直ちに権力を掌握したイタリアのような欧州における革命運動すべての顕著な後退傾向のため世界革命という考え方は退けられた(国際赤色救援会も参照)。1928年までに至るこの時期は「第二期」として知られ、ソ連の「戦時共産主義」から新経済政策「ネップ」への移行を反映している[19]

第5回コミンテルン大会は1924年6月17日から7月8日にかけてモスクワで開催され、49か国から510名の代表が出席した。ソビエト連邦共産党代表は資本主義は一時的に相対的安定が可能とするスターリンの意見を基にコミンテルンの戦術を作成するがこの過程でコミンテルン内部の左右両派と闘争が行われ、各国共産党を大衆組織としてコミンテルン各支部のボリシェヴィキ化を決定している。このときの決議に従い、1926年には、国際レーニン学校も設立されている。

大会中ジノヴィエフマルクス主義哲学の学者ルカーチ・ジェルジクン・ベーラハンガリー・ソビエト共和国に関与した後、1923年に出版した『歴史と階級意識』(Geschichte und Klassenbewusstsein)とカール・コルシュの ⇒『マルクス主義と哲学』[要出典]を非難した。ジノヴィエフ自身は一国社会主義の問題でスターリンと対立して1926年に解任されたが、その時スターリンはすでにかなりの権力を握っていた。そしてブハーリンが「右翼的偏向」と非難されるようになる1928年までの2年間コミンテルンを指導している。ブルガリアの共産主義指導者ゲオルギ・ディミトロフが1934年にコミンテルンを指導するようになり、その解散まで議長を務めた。
第三期

1928年2月9日から2月25日までモスクワで開催されたコミンテルン執行委員会第9回会合(Plenum)には27か国から92名の代表が参加し、いわゆる「第三期」(Third Period)を開始し、それは1935年まで続けられる予定であった[20]。コミンテルンは資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること及び全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左(Ultra-left)路線であることといったことを宣言している。特にコミンテルンは全ての穏健な左翼会派を「社会主義ファシスト」と表現して、共産主義者は穏健な左翼会派の破壊のために尽力するよう主張した。1930年以後のドイツにおけるナチの活動拡大により、この姿勢はドイツ社会民主党を主要な敵として扱うドイツ共産党の戦術(社会ファシズム論)を批判していたポーランド人共産主義者で歴史家のアイザック・ドイッチャーなど多くの者と多少の論争となった。

第6回コミンテルン大会は1928年7月17日から9月1日にかけてモスクワで開催され、57か国から532名の代表が出席した。開会演説はニコライ・ブハーリンが行い、次いでプハーリン、スターリン、モロトフ、テールマンなど28人が幹部に選ばれた[21]

しかし大会はスターリンが直接に指導し、ブハーリンの「日和見主義的立場」を除き、資本主義戦後発展第三期は資本主義的安定の矛盾を発展させ資本主義的安定をさらに動揺させ、資本主義の一般的危機を激化させるべきとする第三期論を決定した。「日支闘争計画#コミンテルン1928年テーゼ」も参照

共産主義者の帝国主義戦争への反対運動は一般平和主義者の戦争反対運動(反戦運動)とは根底が異なり、共産主義者は戦争反対運動をブルジョワ支配階級の絶滅を目的とする階級闘争に必要なものとテーゼに記され、ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論[22]に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった[23]日支闘争計画#レーニンの敗戦革命論」、「革命的祖国敗北主義」、「プロレタリア独裁」、「クラーク撲滅運動#スターリンのクラーク絶滅政策」、および「ホロドモール」も参照

この大会においても植民地の世界における統一戦線の方針が修正されている。太平洋労働組合書記局が創立された1927年中国国民党は中国の共産主義者を攻撃し(上海クーデター)、そのため植民地の国々における地元ブルジョワジーとの同盟を形成するという方針の見直しにつながった。


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