1951年(昭和26年)9月1日、中部日本放送(現CBCラジオ)と新日本放送(現MBSラジオ)による民間ラジオ放送が開始。
9月7日を「CMソングの日」としている例がある[※ 8]が、これは日本初の(放送における)CMソングの定説とされる『僕はアマチュアカメラマン』(作詞・作曲:三木鶏郎、歌:灰田勝彦;小西六写真工業)が初オンエアされた日(1951年)ということに基づいている。『僕はアマチュアカメラマン』の歌詞には企業名や商品名はなく、後のイメージソングに近いものであった[5]。
しかし、9月3日に『ペンギンの歌』(作詞:重園よし雄、作曲:平岡照章;塩野義製薬)が流れており、また、9月1日のラジオコマーシャル第1号となる精工舎[注 4]のCMでも、時報メロディが電波に乗ったという資料があり、これこそが厳密には日本初のCMソングであるという指摘もある[田家 1]。なお、この『ペンギンの歌』は当初、童謡扱いでNHKでも流れていた[5]。
1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビによる民間テレビ放送が開始。当時は「シンギング・コマーシャル」という呼び方もされていた[小川 1]。日本初のテレビ放送におけるCMソングは『やっぱり森永ね』(作詞・作曲:三木鶏郎、歌:中村メイコ、古賀さと子、灰田勝彦、宮城まり子、三木鶏郎;森永製菓)とされている[6][7]。
1950年代半ばにはCMソングの強い宣伝効果が認識され、『ミツワ石鹸テーマソング』に代表される企業名・商品名を連呼するタイプが続出した[小川 2]。
1957年(昭和32年)8月28日、『有楽町で逢いましょう』(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌:フランク永井;有楽町そごう)が発売。同フレーズが当時の流行語となる。
三木鶏郎の他にCMソングの作曲家には、いずみたく、作詞家には野坂昭如が活動し始めていた。歌手では楠トシエも多くのCMソングを歌った。
『週刊サンケイ』1957年10月20日号の記事によると、当時日本のテレビ・ラジオでCMソングを流していた企業は、ざっと82社に及んだ[8]。 1959年(昭和34年)4月の皇太子成婚を機に、テレビが急速に普及。高度経済成長と今までに無い新商品の発売に関連し、CMソングも多様化し始めた。その一つとして、「インフォマティブ・ソング」(作曲者の嵐野英彦が命名した商品説明型CMソング)が登場した[小川 3]。 1960年(昭和35年)6月29日、ビートルズが来日し、公演を行う。既に、ロカビリーなどの洋楽が日本に入り、リズムはCMソングにも導入され始めていたが、まだ音階は、全音階的長音階が中心のままだった[小川 4]。 同年9月10日、テレビのカラー本放送開始。 同年、電通がCMソングをまとめた書籍『コマーシャル・ソング』を発行する[9]。 この頃、CMソングばかりを流す番組『歌うコマーシャル』が、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で放送されていた[10]。 1962年(昭和37年)、第2回ACC全日本CMフェスティバルから、CMソングを対象とする「シンギング部門」がラジオ部門の中に創設される[11]。 1963年(昭和38年)、5秒CMが解禁[田家 2][注 5]。CMソング受難の時期となる一方で、サウンドロゴが発展したという見解もある。 この頃は、戦後の流行歌のようなヨナ抜き長音階・自然短音階が、ようやくCMソングに用いられた時期でもあった。これは、創生期のラジオ歌謡をベースとしたホームソング調・童謡調にはなかったものだった[小川 5](初期のテレビCMに関しては多様で、オペラ風、シャンソン風、音頭風などもあったという[小川(考古学) 1])。CMソングとレコード流行歌の音楽的落差がなくなり、レコード流行歌の歌手がCMソングを歌うことも普通になっていく[※ 9]。 1967年(昭和42年)4月、レナウンの『イエイエ』(作詞・作曲:小林亜星、歌:朱里エイコ)がオンエアー。斬新なもので、広告界では「イエイエ以後」という言葉が生まれた[小川 6][12][13]。この『イエイエ』はレコードとして発売され、1万5000枚を売り上げた[14][12][13][15]。
創生期の代表的な楽曲
どなたになにを(古賀さと子;福助足袋)
エンゼルはいつでも(川田孝子;森永製菓)
1959 - 1966年
1966年までの代表的な楽曲
明るいナショナル(三木鶏郎合唱団;松下電器産業)
光る東芝の歌(ダークダックス;東芝)
かっぱの唄(楠トシエ;黄桜酒造)
キンカンの唄(雪村いずみ、ダークダックス;金冠堂「キンカン」)
長生きチョンパ(楠トシエとフォー・コインズ ; 船橋ヘルスセンター)
ライオネスコーヒーキャンディー(篠崎製菓)
セクシー・ピンクの歌(伊勢半)
チクレ・モリナガ(トリオ・ロス・パンチョス;森永製菓)
1967 - 1974年