クラークがこのアイデアを思いついたのは、ダンケルク撤退戦の最終日に当たる1940年6月4日で、上司のディル大将には翌日の6月5日に計画案を提出した。ディル大将は、更に翌日の6月6日に、当時イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルに計画案を提出し、6月8日にはクラーク中佐に計画案の承認が伝えられた。驚くべきことに、コマンド部隊の創設はたったの4日間で決定されたことになる。
チャーチルからの条件は、イギリス本土をドイツ軍から防衛する部隊は使用できないことと、同様の理由から火器類の装備は最低限で済ませることの2点のみだったと言われている。チャーチル自身が書き残したメモによると、この部隊の兵員は志願兵を選抜して編成され、トンプソン・サブマシンガンや手榴弾で武装され、オートバイや装甲車で移動するとされている。
この新しい部隊には、ボーア戦争時代に活躍したボーア軍の呼称だったコマンドが冠されることになったが、実際の部隊編成は18世紀に活躍したレンジャーを手本にしたとされる。このため、コマンドは志願兵選抜制で、3人の将校に47人の下士官と兵士で1個部隊が編成されるという、当時のイギリス軍としては極めて異質なものとなった。
こうして速成で編成されたコマンド部隊は、1940年の6月23日から翌日にかけて、初めての作戦を実施した。フランス北部のブローニュ地区に奇襲上陸作戦を行ったのである。しかし、死傷者こそいなかったものの、その成果は見るべきものが無く、チャーチルからの不興を買った。
最初の作戦が不首尾に終わった後、コマンド部隊は長期間かけて再編成されることになった。2回目の作戦が実施されたのは1941年2月21日で、目標はノルウェーのロフォーテン諸島だった。奇襲は成功し、作戦を撮影した映像がイギリスで公開され、大きな宣伝効果を生んだ。当時のイギリス軍はドイツ軍に対して全く良いところがなかったので、このような小規模部隊による奇襲攻撃の成功が戦意高揚に利用されたのである。 フランスは、ドイツ占領下の1942年ノルマンディー上陸作戦に、自由フランス軍から編成された部隊が参加、後に海軍コマンドの基礎となる。現代ではDGSE、GCMCなどと合同作戦を展開するコマンドー・ユベルを含む7つのコマンド部隊で構成される。また陸軍においても、1960年代に落下傘師団の各連隊に空挺コマンドーが編入され、それらは空挺コマンドーグループを構成する。 一方、ナチス・ドイツではコマンドに苦しみ、アドルフ・ヒトラーがコマンドを軍人ではなくテロリストとして即処刑するコマンド指令
フランス
アメリカ(英語版
その他の国
しかし、現地指揮官に事実上作戦の全権をゆだね、きわめて大きな自由裁量権を与えるコマンド部隊は、将兵に、というより国民すべてに絶対的な統制を敷き絶対的な服従を要求していた、そして、戦局の悪化と共にその傾向をさらに強めていたナチス・ドイツの国是そのものに反する存在であり、米英軍コマンド部隊ほどの独自の活躍は見られなかった。ブランデンブルクは、戦局の悪化と共に正規軍に編入されて消耗し、第502SS猟兵大隊も、アドルフ・ヒトラーの側近スコルツェニーの私兵程度の存在で終わった。
また、中華人民共和国やソ連といった他の全体主義国家においてもコマンド部隊の必要性は認識されていたが、やはり、その規模や活動は主に指揮統率面で制限され、有効な運用をされていない。
第二次世界大戦後、特にベトナム戦争以後は、少数の将兵からなる小さな戦闘単位の現地指揮官に大幅な自由裁量権を与える運用が一般化し、いわば「軍全体のコマンド部隊化」が進んでいる。また、各国でさらなる少数精鋭として特殊部隊や緊急展開部隊が編成されている。
各国のコマンド作戦
イギリス(コマンド作戦)船内突入訓練を行うフランス海軍コマンド、コマンドー・ジョベール隊員(2011年撮影)
イギリス軍に支援されたコマンド部隊によるノルウェーにおけるドイツの重水製造施設の破壊工作。
イギリス連邦のオーストラリア軍・ニュージーランド軍・在豪イギリス軍が参加した「Zフォース(英語版)」は、主にシンガポール停泊中の日本船を少人数で襲撃して戦果を挙げ、1943年9月26日のジェイウィック作戦では7隻の日本船を沈めることに成功し、全員が無事帰還を果たしている。しかし、1944年10月10日に実施されたリマウ作戦では、停泊中の日本船3隻を沈めたところで参加したZフォースのメンバー23人中13人が射殺され、残る10名も翌年5月までに全員が逮捕されている。
アメリカ(コマンド作戦)
1942年、アメリカ陸軍レンジャー部隊(英語版)による北アフリカ西部侵攻戦での支援。
アメリカ海兵隊は、コマンド部隊としてレイダース(英語版)(Marine Raiders)なる部隊を編成し、潜水艦による島嶼襲撃であるマキン奇襲作戦(1942年8月)などを実行した。マキン奇襲では日本軍の守備隊を壊滅させて戦術的には成功を収めたが、暗号書の獲得などには失敗している。
ドイツ
ブランデンブルク部隊による後方攪乱。
ハラルト・モルス率いる降下猟兵部隊によるベニート・ムッソリーニ救出作戦(グラン・サッソ襲撃)。
オットー・スコルツェニー率いる第502SS猟兵大隊による特殊作戦。
イタリア
イタリア海軍コマンド部隊によるアレクサンドリア港攻撃。
日本
日本軍は陸軍中野学校において上記ボーア戦争を研究したが、「ボーア隊形」による少数精鋭部隊の行動として、あくまでも既存の浸透戦術の応用としての解釈にとどまり、通常の指揮系統から独立したコマンド部隊の設立には至らなかった。
1941年には関東軍隷下に長距離挺進破壊工作を目的として将校・下士官のみからなる300人未満の機動第2連隊を編成し、後に機動第1旅団に拡充するが、ソ連対日参戦に至るまで戦略予備として温存され、対中米英戦には参加していない。