コピアポ鉱山落盤事故
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2008年には43人の命が失われ[9]2009年に19万1685件の事故が発生し443人が死亡、2010年の第1四半期だけでも155人が死亡している[10]

コピアポ鉱山の坑道は螺旋状に1本道で地下深くに伸びており、迂回路や退避路は設けられていなかった。コピアポ鉱山でも2004年と2007年に各1名の死亡事故を含む複数の事故が起こっており[4]、政府は2010年7月から、鉱山所有会社らに坑道の強化の不備の旨の警告を発していた。1995年に鉱山労働組合はコピアポ鉱山の閉鎖を要求、裁判所にも持ちだされた。2005年から2007年にかけ労働監督局は閉山を決定したものの、なんの改善措置も行政監督もなく、2009年に操業再開が認められた。今回の事故原因の強度不足も、事故が起きる前の段階で予測可能だったものを、早期に鉱山閉鎖をしなかった理由について論争を引き起こしている。全国地質・鉱山事業局(Sernageomin)の役割が疑われ、Sernageominの17人の監督官による責任のなすりあいが行われる一方で、鉱山経営者との間に利益提供があったことが疑われている。アタカマ州には2000から3000の鉱山があるが、担当する監督官はわずか2名であった[11]
事故の発生

2010年8月5日、作業員達は二手に分かれて作業をしていた。まず地下460メートル地点で落盤事故が発生し、大量の土砂が作業員の3メートル手前まで押し寄せる。事故発生当時、坑道出口付近で作業していたグループは速やかに脱出したが、坑道奥で作業していた33名は坑内に閉じ込められた[12]。事故に遭遇した労働者は皆男性で、32名のチリ人と1名のボリビア人であった[1][13]。閉じ込められた作業員は通気孔からの脱出を模索したが、通気孔にはステップがなく脱出は不可能であった。その後、8月8日にも地下510メートルの地点でも落盤があり、坑道は闇に包まれた。鉱山のオーナーは事故発生後9日間行方をくらまし、8月13日にやっと人々の前に姿を現して「私たちにとってもっとも重要なことは、労働者とその家族だ」と述べたが、逆に被害者家族より非難を受けた。
事故後18日目の生存確認
生存は絶望視されていたが、救助隊は確認のため地下700メートルの避難所まで直径8センチのドリルで穴を掘った。22日にドリルを引き上げたところ、先端に赤い文字で「われわれ33名は待避所で無事である」旨をスペイン語で手書きされた紙がくくりつけられているのを発見、坑内に閉じ込められた33名が地下700メートルの避難所で生存していることが確認され[12]、さらにはこの中にはある従業員による妻宛に自分が元気であることを伝えるラブレターなども含まれていた。そして救助隊が直径10センチとなった穴にファイバースコープを挿し込むと地下の鉱員の顔が映し出された。翌23日には音声での通話に成功している[14]。救出活動を現地で見守っていたチリ大統領セバスティアン・ピニェラはこの生存確認を受けて、現地に集まっていた鉱夫の家族たちに対して拡声器で生存確認を報告、現地は歓声に包まれ[12]、首都サンティアゴでもラッパが吹かれるなど歓喜の渦に包まれ[15]、チリ各地で広場に集まったり、車のクラクションを鳴らしたりして生存を祝った[16]
地下での被災状況
避難所には通風口がつながっていたため、彼らは生存していたが、食料や水はわずかにしかなく[# 1]、1日おきに1人当たり小さじ2杯分の缶詰のマグロ・牛乳1口・ビスケット1枚を分配してしのいでいた[17]。彼らが発見されたときの備蓄食料は、あと2日分しか残っていなかった[14]。保健相によると作業員は、1人あたり平均で体重が10キロ落ちた[18]。避難所の広さは約50平方メートルだが、長さ約1.8キロの坑道に通じており、地下620メートルの作業場(ワークショップ)や坑道最深部まで自由に歩き回ることができ、排泄物も場所を決めて坑道奥に廃棄していた。33人は坑道内のトラックのバッテリーを使ってヘッドライトを充電し、光源にしていた。
耐久生活

鉱夫たちは50平方メートルほどのシェルターにいたが、通気性に問題があったため、坑道に移らざるをえなかった[19][20]。シェルターのほか、動きまわるスペースのある2キロほどの地下通路があった[21]。鉱夫たちはバックホーを使って地下水を確保している[22]。鉱山シャフトの内側にある搬送機のラジエーターからもある程度水を得ることができた[21]。食料は限られていたため、1人あたり8キロほど体重を落としている[20]。緊急時にと残されていた食料はわずか2、3日分であり、彼らはそれを分け合って、発見されるまでの2週間をやりくりした[23]。彼らが口にしていたのは「48時間ごとにマグロの缶詰を小ぶりのスプーンに2杯、牛乳を一口、ビスケットを1枚、桃の一切れ」であった[21][22]。明かりにはトラックのバッテリーを使ってヘルメットのランプを灯している[20]

退院後のマリオ・セプルベダの言葉によれば33人は「一人一票制の民主主義を採用していた。脱出口を探したり、士気を高めようと皆で頑張った」「もし関係が破綻したら、みんなおしまいってことは誰もがわかっていた。毎日別の人間が何かしら不始末をやらかしたけど、そういうときはいつでも、みんながチームとして士気を維持しようとしていた」という。セプルベダはじめ古参の鉱夫は若い人間をよく助けたが、鉱山内で起こったことの詳細、特に絶望的だった最初の何週かに起こったことについては口を閉ざすよう皆で誓った、と彼は言った[24]。そういった出来事の中には、仲間が死亡した場合にその肉を食べることも真剣に検討したことも含まれていた。

アバロスもまた、地下で生き残るため空腹に打ち勝とうと力を合わせた。「まとまりになれば、頑張りとおせる。希望をもっていられる。生き残るとみんなが信じなければいけなかった」と語っている。かつてプロのサッカー選手だったフランクリン・ロボスは自分たちが素晴らしいサッカーチームであるかのように行動したという。「ひどいことが起きたけど協力しあった。何もなかった、水が飲みたくても飲み物なんてどこにもなかったときも。僕らは協力しあったんだ。食べるものもなくて、スプーン一杯のツナ缶を口にしたぐらいだったときも。それで本当に結束することができた」[25]
主要人物
ルイス・アルベルト・ウルスア
鉱山の現場監督だった。事態が容易ならざるものであること、救出が難しいことを理解し、「避難所」と彼らが呼んだ安全地帯に鉱夫たちを移動させた。わずかな物資を長期間もたせるために皆のまとめ役となった
[26][27]。事故の直後には3人を選抜して坑道を探索させ、状況を確認した。周辺の情報を細かくまとめた地図は救出を容易なものにした。救出作戦においては、地下の側から地上のエンジニアとテレビ会議で密に連絡をとっている[28][29]。また救出の際には「自らが最後まで残る」と希望する者が複数存在したが、その役職上の責任もあり、ルイスが最後まで残ることが認められ、33人目の救出者となった[30]ピーター・ドラッカーの愛読者でもある[31]
フロレンシオ・アバロス
地下ではサブリーダーになり、ウルスアを支えた。それまでの経験と丈夫な肉体、精神力を買われて、脱出用カプセルへ乗る最初の人間に選ばれた。もともとはシャイな人間であり、鉱夫の家族へ送るビデオを撮る際は撮影係にまわった。彼の弟も閉じ込められている[29]
ジョニ・バリオス
医師役をつとめて全員の健康状態を確認し、必要ならワクチンを与えたり、地上の医療班に仔細な報告をした。仲間たちはアメリカのテレビドラマにちなんで、彼を「ドクターハウス」と冗談めかして呼んでいた[32][27][29]


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