コネチカット州
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アジア系  3.8%
インディアン  0.3%
混血  2.6%

歴史主要記事:コネチカット州の歴史コネチカット、ニューヘイブン、セイブルック各植民地の位置図

州名はアルゴンキン語で「長い川に沿った」を意味する言葉 quinatucquet を英語化したものである[10]。この地域をヨーロッパ人が植民地化する以前はモヒガン族インディアンが住んでいた。最初に探検したヨーロッパ人はオランダ人探検家のアドリアン・ブロックだった。1614年に探検した後、オランダ人毛皮交易業者がコネチカット川を遡り(当時のオランダ人はバーシェリビア、すなわち「新鮮な川」と呼んでいた)、現在のハートフォード、ダッチポイントに砦を築き、「希望の家」(オランダ語: Huis van Hoop)と呼んだ

当時マサチューセッツ湾植民地住民だったジョン・ウィンスロップが、1635年にコネチカット川河口のオールドセイブルックに新植民地を設立する許可を得た。これが後にコネチカット州を造り上げることになる3植民地の始まりとなった。セイブルック植民地は、オランダによる領有権主張と衝突していた。この植民地は小さな前進基地以上のものにはならず、成長しなかった。1644年セイブルック植民地はコネチカット植民地と合流した。

最初のイングランド人開拓者は1633年に入ってきてウィンザーに入植し、翌年にはウェザーズフィールドに入った[11]。しかし大集団で入ってきたのは1636年になってからだった。その開拓者はマサチューセッツのピューリタンであり、トマス・フッカーが率いていた。フッカーはイングランドの著名人であり、ケンブリッジでは神学教授だった。重要な政治的著述家であり、憲法理論に大きな貢献を果たした。ロジャー・ウィリアムズロードアイランド植民地に新しい政体を造ったように、フッカーもマサチューセッツ湾植民地の指導層と訣別し、その追随者と共に1636年にハートフォードでコネチカット植民地を設立した。これが3植民地の2つめだった。

3番目のニューヘイブン植民地は1638年3月に、ジョン・ダベンポート、セオフィラス・イートンなどが設立した(当初はキニピアック植民地と呼ばれていた)。独自の憲法である「ニューヘイブン植民地の基本的合意事項」を作成し、1639年6月4日に署名が行われた。

マサチューセッツからのイングランド人開拓者が大挙流入したので、オランダは数で劣勢となり、1654年にその砦を放棄した。

コネチカット植民地もキニピアック植民地もイングランド王室の認可を得て設立されてはおらず、独立した政体だった。イングランドに従属すると見なされてはいたが、法的にはマサチューセッツ湾植民地から分離した前進基地に過ぎなかった。1662年、ウィンスロップがこの政治問題に関する法的な隙間を利用し、イングランドで認可を取得し、コネチカット植民地とキニピアック植民地を統合した。ウィンスロップが得た認可はコネチカット植民地に有利なものだったが、ニューヘイブンの町がハートフォードと共に植民地の首都となり、その状態はアメリカ独立戦争の後まで続いた。

ウィンスロップは政治的に大変明敏であり、新しく王座についたチャールズ2世から認可を得て、大変リベラルな政治的条件を認められた。

政治的に重要な植民地開拓地とその設立年は次の通りだった。ウィンザー、1633年ウェザーズフィールド、1634年セイブルック、1635年ハートフォード、1636年ニューヘイブン、1638年フェアフィールド、1639年ギルフォード、1639年ミルフォード、1639年ストラットフォード、1639年ファーミントン、1640年スタンフォード、1641年ニューロンドン、1646年

最初の憲法である「基本的秩序」は1639年1月14日に採択された。コネチカット州の現行憲法は1965年に採択された3代目である。コネチカット州はアメリカ合衆国憲法を批准した順番で、13州の中の5番目であり、アメリカ合衆国憲法の著者の1人がニューヘイブン出身のロジャー・シャーマンだったので、コネチカットの憲法はアメリカ合衆国憲法に影響を与えた。1854年のニューロンドン

コネチカット州の西側州境は何度か修正された。1650年9月19日にオランダとの間に調印されたハートフォード条約により、コネチカットの西側境界はグリニッジ湾から北に20マイル (32 km)[12][13] を走り、「当該線がハドソン川から10マイル (16 km) 以内に入らないこと」とされた。この条約をイングランドは批准しなかった。この合意は1652年にイングランドとオランダの間に戦争が勃発するまで守られた。これ以外の規定は無かった。この不確かな境界に関して、1664年にヨーク公ニューネーデルラントを占領させた時まで紛争が続いた[12][13]。一方コネチカットが1662年に得ていた認可では、「南の海」すなわち太平洋まで続く全ての土地が認められていた[14][15]。このことで東西に長く伸びる帯状の土地が認められていた。コネチカットはこの認可を真面目に捉え、サスケハナ川とデラウェア川の間に、9番目の郡であるウェストモアランド郡を設立した。これがペンシルベニア州との間に短期間のペナマイト戦争を生じさせることになった。

コネチカット州の領土はオハイオ州北部を横切る形で伸びており、コネチカット西部保留地と呼ばれた。この土地はコネチカット州出身の人々が多く入植しており、コネチカットの地名をオハイオ州にもたらすことになった。ペンシルベニア州およびニューヨーク州との合意が成立して、コネチカット州による領有権主張が消滅し、現在州南西部にあるコネチカット・パンハンドル部ができた。西部保留地は連邦政府に譲渡され、マサチューセッツ州との州境微修正が行われた後で、現在の領域が確定した。


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