コスタリカ
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通貨コスタリカ・コロンCRC
時間帯UTC-6 (DST:なし)
ISO 3166-1CR / CRI
ccTLD.cr
国際電話番号506

コスタリカ共和国(コスタリカきょうわこく、スペイン語: Republica de Costa Rica)、通称コスタリカは、中央アメリカ南部に位置する共和制国家。北にニカラグア、南東にパナマ国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。首都サンホセである。国土面積は51,060 km2で、人口は約500万人[3][4]である。首都であり最大都市であるサンホセには推定333,980人が住んでおり、周辺の都市圏には約200万人が住んでいる。
概要

中央アメリカにおいては数少ない、長年にわたり安定した民主主義政治を維持している国で、高い教育を受けた労働者が多いことでも知られている[5]。教育予算が国家予算に占める割合は、世界平均が4.4%であるのに対し、同国はおよそ6.9%(2016年)である[6]。かつては農業に大きく依存していたが、現在は金融、外資系企業向けサービス、製薬、エコツーリズムなど多角的な経済活動を行っている。コスタリカの自由貿易地域(FTZ)には、多くの外資系製造業やサービス業が進出しており、投資や税制上の優遇措置の恩恵を受けている[7]

コスタリカは16世紀にスペインの支配下に入るまで、先住民が住んでいた。その後、第一次メキシコ帝国の一部として独立し、中央アメリカ連邦共和国の一員となり1847年に正式に独立を宣言するまで帝国の周辺植民地として存続した。1948年の短期間のコスタリカ内戦の後、1949年に恒久的な機関としての陸軍を廃止し、常備軍を持たない数少ない主権国家の1つとなった[8][9][10]

人間開発指数(HDI)では常に良好な成績を収めており、2020年時点で世界第62位、ラテンアメリカ第5位。国連開発計画(UNDP)からも、同じ所得水準の他国よりもはるかに高い人間開発を達成しており、人間開発および不平等については地域の中央値よりも良い記録を持っていると引用されている。また民主主義の状態、報道の自由、主観的幸福度の比較でも良い成績を示している。報道自由度ランキングでは7位、世界の自由度指数では37位、世界幸福度報告では12位の幸福な国である。一方、中南米の多くの国と同様にカトリックの影響が強く、人工妊娠中絶は母親の健康や命を守る以外の場合に認められない国である[11]
国名

正式名称は、Republica de Costa Rica。通称、Costa Rica。公式の英語表記は、Republic of Costa Rica。通称、Costa Rica。

日本語の表記は、コスタリカ共和国。通称コスタリカ。国名のCosta Ricaが一綴りの単語ではないため、コスタ・リカや、コスタ・リーカと表記されることもある。

コスタリカとはスペイン語で「豊かな(Rica)海岸(Costa)」の意味であり、クリストファー・コロンブスがこの地に上陸した時に、遭遇したインディヘナが金細工の装飾品を身につけていたことからこの名前がついた。
歴史詳細は「コスタリカの歴史」を参照
先コロンブス期

紀元前900年から紀元前300年ごろの遺跡が確認されている。メソ・アメリカの一部であり、チブチャ系民族やナウアトル文化の交錯する地帯であった。13世紀までには神官を中心とする階級制社会が築かれていた。その後アステカ帝国に服属し、緩やかな支配を受ける形で中央アメリカと南アメリカの交易の仲介地点となった。また、カリブ人も定住していた。16世紀初めごろには約40万人の先住民が居住していたと推測されている。
スペイン植民地時代17世紀末の教会跡(カルタゴ)「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1502年9月18日、クリストファー・コロンブスがリモン湾付近に上陸し、ヨーロッパ人としてはじめてこの地に渡来した。1524年征服者フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにより、内陸部もスペインの支配下に入った。1538年にパナマ市アウディエンシアの管轄下に置かれ、1542年にヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だった、グアテマラ総督領の辺境の地として編入された。1564年に中央盆地にカルタゴが建設され、以降、独立までコスタリカの政治と経済の中心となった。

征服の過程での疫病などにより、先住民人口は17世紀初頭には約1万人になり、労働力や金銀などの鉱物資源が足りなかったためにスペイン人入植者の数は少なく、コスタリカはスペイン植民地の最辺境の地として孤立した。カカオプランテーションが築かれ、時折、海賊の襲撃があったものの、植民地時代に大きな変化はないまま時を過ごすことになる。また、時期は定かではないが、中央アメリカで最も早く19世紀初頭までには確実にコーヒーが持ち込まれていた。
独立中米連邦の擁護者 フランシスコ・モラサン。1842年にコスタリカ大統領になり、中米連邦再興のための遠征の準備をしていたところを同年暗殺された。「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照

1789年にフランス革命が起こり、ヨーロッパの政情が不安定になるとその影響はインディアス植民地にも及んだ。1808年にナポレオンのフランス軍がスペイン本国に進駐、国王フェルナンド7世を退位させ、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世に即位すると、スペインでは反フランス暴動がやがてスペイン独立戦争へと発展し、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。

その後、各地のクリオーリョ達がラテンアメリカ解放のために立ち上がり、メキシコミゲル・イダルゴホセ・マリア・モレーロスらによって、南米大陸シモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンらによって解放戦争が続けられ、多くの共和国が独立を果たすと、中米でも1821年9月15日にグアテマラ総監領は中央アメリカ連合州として独立した。この国家は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国により、1822年に他の中米諸国と共に併合された。
中央アメリカ連邦共和国(1823年 - 1839年


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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