コスタリカ
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中央アメリカ連邦共和国(1823年 - 1839年

しかし、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴ってチアパス州を除く旧グアテマラ総監領の五州は再び中央アメリカ連邦として独立した。コスタリカ州代表だったフアン・モラ・フェルナンデス(スペイン語版、英語版)は連邦への積極的な加盟を勧めたが、この過程の中で、それまでコスタリカの中心だったカルタゴが内戦の末にサン・ホセ軍に敗れたため、以降サン・ホセがコスタリカの中心となった。連邦においてはエル・サルバドル出身のマヌエル・ホセ・アルセ(スペイン語版、英語版)が中米連邦初代大統領となるが、自由主義者のフランシスコ・モラサンをはじめとするエル・サルバドル派と、保守主義者のラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ派の内戦の末に、1838年に諸州が独立を宣言して中米連邦は崩壊した。
再独立と国民戦争リバスの戦い(英語版、スペイン語版)で活躍したマクシモ・ブランコ(スペイン語版)将軍

1839年にこの地もコスタリカ共和国として再独立を果たした。その後1842年にホンジュラス出身の元中米連邦大統領、フランシスコ・モラサンが大統領となり中米連邦再興のためにニカラグア侵攻を企てたが、同年にモラサンは暗殺された。

1856年、隣国ニカラグアで アメリカ合衆国南部人の傭兵(ようへい)隊長、ウィリアム・ウォーカーが大統領となった。中米四国はウォーカー排除を決意し、このウォーカーの率いるニカラグア軍との国民戦争(スペイン語版)において、コスタリカ軍は、反ウォーカー派だったイギリスアメリカヴァンダービルト財閥などの支援を得て中米連合軍の中で主要な役割を果たした。同年4月にはリバスの戦い(英語版、スペイン語版)でウォーカー軍を打ち破った。なお、この戦争で壮絶な戦死を遂げたムラートの鼓兵、フアン・サンタマリーア(スペイン語版、英語版)は現在も国民的英雄となっている。

国民戦争後、1870年に自由主義者のトマス・グアルディア(スペイン語版、英語版)将軍がクーデターで政権を握った。グアルディアの主導により、一院制議会と強い大統領権が認められた1871年憲法が制定された。以降1948年までのコスタリカは基本的にこの路線に沿って発展することになり、ラテンアメリカ全体でも特異なコスタリカの民主的な社会が成立する素地となった。

1882年にグアルディアが死去してからは、自由主義派の流れを継いでベルナルド・ソト(スペイン語版、英語版)の支配が続いたが、1889年にカトリック教会と結んだ保守派のホセ・ロドリゲス(スペイン語版、英語版)に選挙とデモによってソトが敗れ、自由主義政権が終焉(しゅうえん)を迎えた。
アメリカ合衆国の進出詳細は「バナナ戦争」、および「ユナイテッド・フルーツ」を参照

1870年代から始まった自由主義の時代にそれまでと同様に主産業だったコーヒー・プランテーションが拡大され、コーヒーを基盤に経済が発展し、1890年には輸出の80%がコーヒーとなっていた。ただし、コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自営農民による中規模土地所有が主体であったため、他の中米諸国やブラジルのような大プランテーションは発達しなかった。また、コスタリカは中米で最も早くコーヒー栽培が開始されたため、コスタリカを通してグアテマラエルサルバドルにコーヒーの生産技術が伝播することとなった。この時期にブエノスアイレスカラカスをはじめとする他のラテンアメリカの多くの国の首都がそうなったように、エリートによって首都サン・ホセパリ風に改造され、カリブ・ヴィクトリア朝を真似た邸宅が建ち並んだ。

また、内陸部からのコーヒー輸送のためにアメリカ人のマイナー・C・キース(英語版)によって鉄道が建設され、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展した。鉄道建設の負債を補うために1871年にパナマ地峡からバナナが導入され、キースはその後、熱帯雨林を切り開いた跡地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れた。バナナはそれまでの主産業だったコーヒーを抜いて、1905年頃には輸出の60%を占めるに至り、1899年にキースにより設立されたユナイテッド・フルーツ社は中央アメリカの事実上の支配者となった。

20世紀に入ってもコスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済の下で発展が続いたが、第一次世界大戦による輸出収入減により、1916年に所得税が導入されると、1917年にフェデリコ・ティノコ・グラナードス(スペイン語版、英語版)将軍がクーデターを起こすが、アメリカの圧力により1919年に独裁制は崩壊した。

1921年にはアメリカの支持の下、隣国パナマとコト戦争を起こし、パナマから領土を得た。

1929年の世界恐慌はコスタリカのモノカルチャー経済に大打撃を与え、コーヒー価格の低落のために社会が不安定化した。1936年の大統領選挙では国民共和党(PRN)からファシズムに傾倒したレオン・コルテスが大統領になった。

なお、1935年堀義貴初代駐コスタリカ日本公使が着任し、日本との間で正式に外交関係が成立した[12]

1940年に行われた大統領選挙では社会民主主義のカルデロン・グアルディア(スペイン語版、英語版)政権が誕生し、グアルディア政権は内政では労働法の制定(1940年)や、社会保障の制度化、コスタリカ国立大学の創設など労働者や中間層よりの政策を進める一方で、外交では1941年の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発すると、合衆国に先駆けて枢軸国に宣戦布告し、敵性国民となったドイツ系地主の資産が接収された。

1944年の大統領選挙ではテオドロ・ピカード・ムチャイスキ(スペイン語版、英語版)が大統領に就任した。

1948年の大統領選挙は与党のカルデロンと野党のオティリオ・ウラテ(スペイン語版、英語版)の一騎討ちとなり、開票の結果ウラテの勝利が確定したが、与党はこの選挙結果を無効とした。こうした中で、グアテマラ大統領フアン・ホセ・アレバロの支援を受けた野党のホセ・フィゲーレス・フェレールによる反乱への準備が進んでいった。


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