コサック
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割合で言えばスラブ人が大多数を占めるとの研究結果がある[15]。当初のコサックは、周辺国家に依存しない独立した集団であった[18]

15世紀後半以降、クリミア・ハン国はオスマン帝国の庇護を得て勢力を増していた。当時クリミア半島奴隷の売買が盛んにおこなわれており、クリミア・ハンは奴隷の捕獲を目的としてたびたび「荒野」を襲撃(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)した[19][20]

主要なコサック共同体はクリミアに近いドニエプル川ドン川ヴォルガ川ウラル川周辺に存在していたため[18][21]、ポーランド、モスクワなど周辺国家の政府は、防衛政策の一環として「荒野」の管理をコサックに任せる代わりに、自治を認めて武器や火薬、資金を提供するようになった[18][20]。このような軍務提供集団として組織化された最初期のものがザポロージャ・コサックとドン・コサックであった。結果的にクリミア・ハンの度重なる襲来は、コサックの軍事力の維持、強化に一役買うこととなった[22]タタールの頸と共に凱旋するウクライナ・コサック(ティモフィ・カリンシキー、1786年の画像)。
ウクライナ・コサック詳細は「ウクライナ・コサック」および「登録コサック」を参照ポルタヴァの戦いに敗れたイヴァン・マゼーパカール12世グスタヴ・セーデルストレム、1879年)

現在のウクライナの地域にあったコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったと言え、それらが基本的には互いに独立して西欧における小国家(ドイツ地域の王国、公国などのような)と同じような小共同体を形成していた。

16世紀初頭、ポーランドドニエプル川周辺にあったコサック集団をまとめ、ザポロージャ・コサックを組織し南部の防衛を任せた[18]。1552年、ルテニア系貴族のドミトロ・ヴィシネヴェツキ(ウクライナ語版、英語版)は現在のザポリージャに近いドニエプル川のホールツィツャ島に最初のシーチを築いた[23][24]。シーチの首領はオタマンと呼ばれた。

1558年にクリミア・タタール人によって破壊されたためシーチは移転再建された。以後シーチは破壊による移転再建をたびたび繰り返すこととなる[24]

1569年にポーランドとリトアニアの連合によるポーランド・リトアニア共和国が成立。1572年、コサックが政府に届け出ることによって地位や給与、土地の所有などの権利を保障する登録コサックの制度を開始した[4][3]。すべてのコサックが登録を許されるわけではなく、最大2万人程度であった。支配者であるポーランド・リトアニアに対する反感もあり、1591年のコシンシキーに始まり、1594年のナリヴァイコほかコサックによる蜂起がたびたび発生し、登録コサックの人数が削減された[25]

1600年代、コサックを率いたペトロ・サハイダーチヌイはタタールとの戦いで戦果を挙げたほか、1621年のホティンの戦いではポーランド軍の主力を率いてオスマン帝国を撃破した[26]

1648年、ポーランド・リトアニアに対する蜂起を決意したボフダン・フメリニツキーヘトマンに就任[27][28]。クリミア・ハン国と同盟を結び、ジョーウチ・ヴォーディの戦いをはじめとする戦いに次々と勝利しポーランドからコサックの権利に関する大きな譲歩を勝ちとった。こうして1649年ヘトマン国家が樹立した。独立国家を手に入れたコサックであったが、その後も周囲の国家との争いが絶えることはなく、1654年に軍事的安定を求めロシア・ツァーリ国ペラヤスラウ協定を妥結しその保護下に入った[18]。ロシアによる扱いが次第に厳しくなる中、1709年、ヘトマンのイヴァン・マゼーパはスウェーデンのカール12世と同盟しピョートル1世と戦い敗れた[29][30]。1734年、最後のシーチとなるノヴァ・シーチ(ウクライナ語版)が建設されたが、エカチェリーナ2世の時代、1775年にロシア軍によって破壊された[24]


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