また、ゲリラ戦では、ゲリラ側が捕虜となった場合の待遇に歴史的な議論があり、近代の戦時国際法の主題の1つとなっている。 アフリカ分割において、ヨーロッパ諸国の軍隊に対する抵抗は、ゲリラ戦の形態を採ることが多かった。アルジェリアのアブデルカーデルや西アフリカのサモリ・トゥーレの採用したゲリラ戦術は、フランス軍を大いに悩ませた。ボーア戦争に際して、アフリカーナーはイギリス軍に対してゲリラ戦で抵抗したが、コマンドーの語源はこの時イギリス軍と互角以上に戦った彼等の言葉アフリカーンス語に由来している。これらのゲリラ戦術はヨーロッパ諸国軍を撤退に追いやることはできず、理論化もなされなかったが、後のアフリカの歴史に少なからぬ影響を残した。 イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスは、第一次世界大戦においてアラブ反乱を率いてオスマン帝国と戦った。彼の取った作戦は、オスマン帝国との正面からの衝突ではなく、ヒジャーズ鉄道を神出鬼没に攻撃してより多くのオスマン軍部隊を鉄道沿線に張り付け、イギリス軍のパレスチナでの進軍をしやすくすることにあった。彼の取った戦法は、各国のゲリラ戦術や特殊部隊に影響を与えた。 近代ゲリラ戦を定型化したのは、ニカラグアのアウグスト・セサル・サンディーノ将軍だった。サンディーノは、1927年に駐ニカラグアアメリカ海兵隊を攻撃してニカラグア北部の密林や山岳地帯でのゲリラ戦争に持ち込み、国際社会やラテンアメリカ諸国の支援を受けて1933年に海兵隊を撤退に追いやった。 現代においてゲリラ戦の有効性を実証したのは、第一次国共内戦において、毛沢東が率いた中国共産党の紅軍であった。延安に長征した後の彼は『遊撃戦論』などの著作の中で、それまでのマルクス主義における革命戦術の唯一の公式となっていた都市プロレタリア蜂起戦術を批判し、山岳を根拠地とする農村ゲリラ戦術を理論化し、国共内戦と日中戦争で実践した。背景には中国史に数ある農民反乱の伝統があったが、毛沢東は単純に農民の数をあてにするのではなく、険阻な山岳に士気の高いゲリラ軍が入って長期抗戦の態勢を整え、それを一般の農民が支援するというスタイルを編み出す。 第二次世界大戦では、中華民国、ポーランド、ユーゴスラビア、ギリシャ、ソ連、フランス、スロバキア、フィリピン、ベトナム、イタリア(ムッソリーニの失脚後)など、枢軸国の侵攻を受けた諸国で占領軍に対するゲリラ戦が展開され、ヨーロッパのゲリラは、特にレジスタンス運動やパルチザンと呼ばれた。これらのゲリラの主任務は、連合国軍の正規軍と連携し、戦線の後方で破壊活動や諜報活動をすることであった。ただし、中国とユーゴスラビアのゲリラは山岳地から勢力を拡大して都市の争奪にまで乗り出した。大戦末期にソ連軍が東欧やバルト三国を占領すると、枢軸軍と戦っていたゲリラは国民の解放を求めてソ連軍相手にゲリラ戦を続け、ウクライナやリトアニア、エストニア、ラトビアではウクライナ蜂起軍や森の兄弟による抵抗運動が戦後も暫く続いた。 第二次大戦後、脱植民地化時代に入ったアジアとアフリカの植民地や低開発国では、社会主義の思想的影響の下で独立運動や反帝国主義闘争が盛んになった。中国では、日中戦争中から日本軍に対するゲリラ戦を優位に進め、第二次国共内戦に勝利した毛沢東の中国共産党が1949年に中華人民共和国を建国し、社会主義圏(東側諸国)に加盟した。
19世紀のゲリラ
20世紀のゲリラ
農村ゲリラ