1814年、同盟軍はフランス本土へ侵攻した。フランス軍はいくつかの戦術的勝利を収めたものの、戦略的には追い詰められていった。3月13日、ブリュッヘル率いるプロイセン軍はパリへ入城した。パリが外国軍の進入を許したのは、400年前の百年戦争以来のことであった。4月4日、ナポレオンは退位させられ、エルバ島に流刑となった。ブリュッヘルはナポレオンは危険であり、銃殺すべきだと主張したが聞き入れられなかった。6月3日、ブリュッヘルにワールシュタット大公の爵位が授与された。その後まもなくブリュッヘルはイギリスを訪問し、熱烈な歓迎を受けた。帰国後、ブリュッヘルは退役し、シレジアに落ち着いた。 1815年、ナポレオンがエルバ島から脱出すると、ブリュッヘルは再び呼び戻された。ブリュッヘルはベルギーに駐留していたプロイセン軍の総司令官となり、再びグナイゼナウを参謀総長とした。6月16日、プロイセン軍はリニーの戦いでフランス軍に敗北した。この戦いでブリュッヘルは負傷し、一時的に指揮権をグナイゼナウにゆだねた。グナイゼナウは軍を東へ撤退させ、ナポレオンはグルーシーの部隊を追撃に派遣した。指揮を預かったグナイゼナウは、イギリス軍への不信からライン方面への後退を考えていた。この時、病床から起き上がったブリュッヘルが後退を却下し、グナイゼナウが指揮を執ってフランス軍を撃破するよう命じたという。イギリス軍と合流すべく、プロイセン軍は強行軍で西へ軍を返した。 6月18日、ワーテルロー(ラ・ベル・アリアンス)では、フランス軍とイギリス軍が激戦を繰り広げていた。グルーシー軍の追撃をかわしたプロイセン軍は、夕方に戦場に到着し、フランス軍の右翼を攻撃した。中央での皇帝近衛隊の攻撃が失敗に終わると、イギリス軍も反撃に移り、フランス軍を撃破した。プロイセン軍は徹底した追撃を行い、フランス軍に多大な損害を与えた。6月22日、ナポレオンが再び退位。7月7日、プロイセン軍は再度パリへ入城した。 なお、この戦いの後、ブリュッヘルは主戦場となったラ・ベル・アリアンス
ワーテルローの戦い
ブリュッヘルはしばらくパリに駐留していたが、老齢を理由に退役し、シレジアに戻った。1819年9月12日、クリーブロヴィッツ(英語版)にて77歳で死去した。 ブリュッヘルは粗野で無鉄砲で無教養だったが、親分肌な人物で度量の広さと人望を備えていた。作戦の立案に際しても、優秀なスタッフに全幅の信頼を寄せ、彼らの意見を取り入れる賢明さがあった。シャルンホルストやグナイゼナウも、彼が総司令官だったからこそ力を発揮できたといえるだろう。 勇敢さという点では並ぶものがいなかった。ただし、そのために戦場で冷静な判断を忘れ、猪突することもしばしばだった。突進が敗北に結びつくことも多々あり、軍事指揮官として最優秀とは言いがたい。特にナポレオンには正面対決でまったく勝利できなかった。 しかし、彼は諦めということを知らない不屈の男だった。また、熱烈な愛国心の持ち主でもあった。敗北に打ちひしがれていたプロイセン将兵を叱咤し、鼓舞し、ついにナポレオンの打倒まで率いたのはブリュッヘルである。前進元帥という称号は、良くも悪くも彼の特質を良く表しているといえるだろう。
評価
関連項目
ブリュッヘルに因んだ軍艦には以下のものがある。
ブリュッヒャー (コルベット) :ドイツ帝国海軍のコルベット(ビスマルク級コルベットの2番艦)。
ブリュッヒャー (装甲巡洋艦) :ドイツ帝国海軍の装甲巡洋艦(同型艦なし)。ドッガー・バンク海戦で戦没。
ブリュッヒャー (重巡洋艦) :第二次世界大戦時のドイツ海軍の重巡洋艦(アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の2番艦)。ヴェーザー演習作戦中のオスロフィヨルドの戦いにおいて戦没。
ヴァシーリー・ブリュヘル - ブリュッヘルに因んで同名の名が付けられた。
ブリュッヘル勲章 - ドイツ民主共和国(東ドイツ)の勲章。
Blucher ? 外羽根式短靴。ブリュッヘルの考案した着脱が容易で、あらゆる人の足にフィットする靴が由来。この形式の靴はヨーロッパ中の軍隊に採用された。
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