ゲティスバーグの戦い(ゲティスバーグのたたかい、英語: Battle of Gettysburg)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。ゲティスバーグ戦役の中核を成し、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。 チャンセラーズヴィルの戦いが南軍の勝利に終わり、勢いに乗ったリー将軍は北部への更なる攻撃を企図していた。目標はボルティモアやフィラデルフィアで、これらを攻略することにより、北部の継戦意欲を失わせることができると考えたからである。 同時期、北軍は司令官をジョセフ・フッカーからジョージ・ミードに変更するという、指揮系統の改善に追われていた。チャンセラーズヴィルの戦いで敗北したフッカーが、エイブラハム・リンカーンにより更迭されたのである。代わりにミードが選ばれた理由の一つは彼がアメリカ合衆国内で生まれていなかったこと、すなわちアメリカ市民でも国外で生まれている場合は大統領選に出馬できないという政治的な理由からだと言われている。 ゲティスバーグは、当時のアメリカにとって重要な地点であった。その理由のひとつは、ゲティスバーグが鉄道や主要道路が集まる交差点であり、そこを確保できれば戦争を有利に進められるからであった。つまりゲティスバーグは補給と部隊増強の要所だったのである。しかし、ゲティスバークの地理的重要性を双方とも理解していたにもかかわらず、南軍、北軍ともにこの地点へ積極的に進軍しようとはしなかった。その理由としては、ここに部隊を送り込むと必然的に大規模な衝突が避けられないことが挙げられる。 ゲティスバーグの戦いは6月初旬ごろから起こっていた小競り合いから発展した戦いである。6月3日に最初の衝突が起こると、リー将軍はただちに戦場に兵を派遣し、騎兵を町の北西にある丘陵の尾根に配置した。だが、本格的な戦闘が始まったのは、7月1日午前5時からであった。当初、南軍がこの地域に部隊を送り込んだのは、北軍の勢力下にあったゲティスバーグを偵察する目的であったとされる。しかし、先に述べた地理的要因から部隊間の衝突が頻繁に起こるようになったため、両軍は援軍をゲティスバーグに集結させざるをえなくなった。これにより、運命の7月1日午前5時を迎えることとなる。 7月1日午前5時早朝、南軍の歩兵が北軍の騎兵を射撃したのがゲティスバーグの戦いの始まりとされる。当初はいつもどおりの小競り合いだったが、次第に大規模な戦いに発展した。このとき衝突した部隊は北軍4個騎兵大隊に対し、南軍は2個歩兵旅団であった。部隊の集結が不完全であった北軍は援軍を待つ間、兵力面から見ても優勢な南軍の歩兵隊の前進をくい止めることに傾注、これに成功した。アルフレッド・ルドルフ・ウォード この初期の戦いが行われている間、ゲティスバーグの地理を生かし、両陣営に大多数の援軍が派遣され続けた。午後になると南軍の総司令官リー将軍も到着した。北軍側は騎兵隊の応戦により南軍の進撃を食い止めていたものの、優勢とはいいがたかった。北軍側は第1軍団(ジョン・F・レイノルズ将軍指揮)と第11軍団(オリバー・O・ハワード将軍指揮)の部隊が徐々に到着して防衛線に加わっていったが、ゲティスバーグの北と西の尾根の攻防戦では南軍側が優勢であり、この戦いで第1軍団司令官のレイノルズ将軍が戦死した。第1軍団の指揮権はアブナー・ダブルデイがこれを引き継ぐこととなったが、北軍は防衛線を支えきれず、ゲティスバーグ市内から撤退していった。 ミードから一時的な現場責任者として先に派遣されたウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍が、ゲティスバーグに到着した。
背景
南軍および北軍の状況
地理的背景
戦闘経過ゲティスバーグの戦い (破線は騎兵の動向) .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{} アメリカ連合国軍 (南軍) アメリカ合衆国軍 (北軍)
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