ゲッベルス家の子どもたち
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ヨーゼフはランケ小学校 (the Lanke primary school) の教師からヘルムートの進級は疑わしいと報告を受けて落胆したが、ヘルムートはその後母や家庭教師の激烈な教育に応え、進級を果たしたという[16]。彼は歯列矯正を行っていた[14]

1945年4月26日、ヒトラーの前で父が書いた誕生日祝のスピーチを朗読したヘルムートは、姉ヘルガに父親を真似していると指摘されたが、逆に父こそ自分を真似しているのだと言い返したという[18][要ページ番号]。

1945年4月30日、ヘルムートは総統地下壕で負傷者の手当に当たっていた15歳の看護師ヨハナ・ルーフ (Johanna Ruf) にちょっかいを出し、平手打ちされている。ルーフは後々になるまで、この少年がゲッベルス家の息子だと知らなかったという[19]。後にヒトラーの秘書だったトラウデル・ユンゲは、子どもたちと総統地下壕にいて、ヒトラーが自殺する際の銃声を聞いたと述べている。ヘルムートはこの音を近くにあった迫撃砲のものと勘違いし、「的に命中だ!」(That was a bullseye!) と叫んでいた。殺害の時、ヘルムートは9歳であった[12]
ホルディーネ・カトリーン (Holdine Kathrin)

三女ホルディーネは1937年2月19日に生まれた。「ホルデ」(Holde) という愛称で呼ばれていたが、これは彼女を取り上げた医師のシュテッケル (Stoeckel) が「なんと可愛らしい!」(Das ist eine Holde!) と叫んだためである[20]。マイスナーはホルデについて、子どもたちの中で「最もおとなしく」(least lively) 、他のきょうだいに「押しのけられた」(pushed aside) ところがあって多少なりとも悩みの種だったようだと述べている[21]。父ヨーゼフはこれに対し、ホルデを自身のお気に入りにし、ホルデの側もこの献身に応えた[21]。亡くなった時彼女は8歳であった[12]
ヘートヴィヒ・ヨハナ (Hedwig Johanna)

1938年5月5日に生まれたヘートヴィヒは、もっぱら「ヘッダ」(Hedda) と呼ばれていた。1944年には、大きくなったら親衛隊 (SS) の副官ギュンター・シュヴェーガーマン(英語版)と結婚すると息巻いていたが、これは彼が義眼であることに魅了されての出来事だった[22]。ヘッダは死んだ時6歳だったが、これは彼女が7歳になる誕生日のわずか4日前のことであった[12]
ハイドルーン・エリーザベト (Heidrun Elisabeth)

末娘ハイドルーンは1940年10月29日に生まれたが、この日は父ヨーゼフの誕生日でもあった。彼女はチェコ人女優リダ・バーロヴァとヨーゼフの情事を経て、両親が和解した後にできた子どもだったため、「和解の子」the reconciliation child と呼ばれたという[23]ローフス・ミシュは彼女を「小さなフラート」little flirt と表現し、総統地下壕では彼女と共にジョークを言い合うこともしばしばだったと述べている[24]。彼女は「ハイデ」Heide の愛称で親しまれたが、殺害された時4歳であった[12]
家族の歴史空撮したシュヴァーネンヴェルダー(2019年)。ハーフェル川の中州であり、「白鳥中州」という意味を持つ

1934年、自身と家族のプライバシーを求めたヨーゼフは、ハーフェル川の島シュヴァーネンヴェルダー(英語版)の敷地内に壮大な屋敷を購入した。彼は合わせて、川で使うために「バルドゥル」号 (Baldur) と名付けたモーターヨットも購入した。ハラルトには1階の子ども部屋が与えられたが、ヘルガとヒルデは1つの部屋を分け合うことになった。子どもたちには庭で乗り回すように、ポニーに加えて小さな馬車まで与えられた。2年後、ヨーゼフは隣人の不動産を購入して庭を拡張し、自身の隠遁のために「砦」citadel を建設した[21]

その後、ヨーゼフの職権を受けたベルリン市は、彼の公邸としてランケ・アム・ボーゲンゼー(英語版)に2軒目の湖畔の家を建設したが、この家は家族が週末を過ごす家として充分な大きさであった。ヨーゼフはその後、ボーゲン湖の反対岸に、大きな現代風の家を追加で建てている[21]

ゲッベルス夫妻の結婚は、1938年の晩夏にチェコ人女優リダ・バーロヴァとヨーゼフの情事が発覚したことで、大きな危機を迎える。この一件に関しては、自身の高官のひとりがスキャンダルにより離婚することなど望まないとヒトラー自ら取りなし、ヨーゼフにバーロヴァと別れるよう迫っている[25]。この結果、ゲッベルス夫妻はこの年の9月までに停戦協定を結ぶに至った[26]。この時点でも夫妻は別の諍いの種を抱えていたが、再びヒトラーが取りなし、夫妻が共にいるようにと丸め込んだ[27]。ヒトラーは女優を追放すること、またマクダの作るであろう合理的条件をのんだ上で、今後も夫妻で公の場に出席するよう合意を取り付けた[28][29]。マクダの付けた条件のひとつには、ヨーゼフはシュヴァーネンヴェルダーを訪れ、マクダの許可があってはじめて子どもたちに会えるという条項があった。また、翌年もマクダが離婚を望んでいるならば、ヒトラーはこれを認め、ヨーゼフを罪人として扱い、マクダはシュヴァーネンヴェルダー、子どもたちの親権、また相当な収入を得ることができるとされていた[29]。ヨーゼフはこの合意を徹底的に遵守し、訪問の前にはいつでも許可を求め、マクダが不在の時は残念でならないと述べ、家族のお茶の席で彼女がいる時には、自分の席を優しく譲るほどだった。子どもたちは当時、誰ひとりとして両親が別居していることに気付かなかったようだと述べられている[29]
メディアへの登場国歌斉唱中の父ヨーゼフと娘たち(中央はヒルデ、右はヘルガ)。1937年、ベルリンのザールバウ(the Saalbau、「ホール」の意味)で開かれたクリスマス祝賀会にて

1937年、ヘルガとヒルデは父と共にベルリン春季レガッタ (the Berlin Fruhjahrsregatta) に出席し、この様子が写真に収められた[30]

また1939年には、障害児の安楽死を掲げたT4作戦プロパガンダ映画において、ヨーゼフが隠しカメラで撮影した子どもたちの映像が、障害児の「健康な」対照として用いられた[31]。1942年の間、子どもたちは34回にわたって週間ニュース映画に登場し、彼らの生活や、母マクダを助ける様子、父ヨーゼフ45歳の誕生日に庭で遊んだり歌ったりする様子が流された[31]。この年の10月、ヨーゼフは「ドイツニュース映画会社」(German Newsreel Company) からの贈り物として、子どもたちが遊んでいる様子を映した映画を受け取っている[32]

1943年2月18日、ヨーゼフは彼の演説として最も有名な総力戦演説を行ったが、この時母マクダと共にヘルガとヒルデが写真に収められている[11]


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