ゲシュタポ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

またハイドリヒはドイツ各地から法律家や専門家を集めたが、その中にヴェルナー・ベスト博士がいた[36]。さらに1935年初頭にゲシュタポの機構改革が行われた。各「課 (Abteilung)」を3つの「部 (Hauptabteilung)」に統合することとしたのであった。ゲシュタポは、1部(行政・司法)、2部(政治警察)、3部(諜報警察)の3つの部から構成されることとなり、そのうちゲシュタポ全体の統括と2部の統括をハイドリヒ自身が行い、1部と3部をヴェルナー・ベストが統括した。ハイドリヒの統括する2部は、「マルキシズム」担当課(共産主義者や社会主義者の取り締まり。課長ハインリヒ・ミュラー。)、「反動、非合法活動、教会」担当課(キリスト教会や保守の反ナチ運動取締り。課長フランツ・ヨーゼフ・フーバー。)「NSDAP、堕胎、175頁、純血問題」担当課(ナチ党内反ヒトラー活動、堕胎、同性愛、ユダヤ人との交際取り締まり。課長ヨーゼフ・マイジンガー。)など6つの課から構成されていた[37][38]

1936年2月10日に第3ゲシュタポ法が制定され、以降ゲシュタポの職権はプロイセン州に限らず、全ドイツに及ぶことが定義された。ただしこの法律公布後もゲシュタポは、その正式名称にプロイセン州をふくむドイツ全国を指す「Reichs(ライヒの)」を冠さず、「Staats」の名称を冠したままであった[15]。またこの法律によりゲシュタポは法を超越した存在である事が確認された。すなわち裁判所にはゲシュタポの決定が合法であるかどうかの審査権はなく、また裁判所で無罪判決を受けた者であってもゲシュタポは逮捕して「保護拘禁」することが可能となった[39]。1936年9月20日にはゲシュタポ局長が各州の政治警察司令官となることが確認された[28]
保安警察・国家保安本部ラインハルト・ハイドリヒ、1940年

1936年6月17日、ヒムラーは内相フリックに下属する全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) に任じられた[40]。この地位はすべての警察所管事項を管掌するものであったが、内相の指揮下にあるとは明言されていないものであった[40]。6月26日、ヒムラーは州政府の警察権を中央政府に移管させ、政治警察であるゲシュタポと刑事警察(殺人・強盗など凶悪犯罪の捜査にあたる警察機関)のクリポ (KriPo) を保安警察(Amt Sicherheitspolizei, 略号: Sipo)として束ね、改めてラインハルト・ハイドリヒに委ねた(なお秩序警察(オルポ(Orpo)、政治警察でない通常警察)はクルト・ダリューゲに委ねられた)[41][40]

ハイドリヒは保安警察を「行政・法制局」、「政治警察局」、「刑事警察局」の3つに分けた。このうち「政治警察局」がゲシュタポであった。「政治警察局」(ゲシュタポ)は、これまで通り1部(行政・司法)、2部(政治警察)、3部(諜報警察)の3つの部から構成された[42]。ハイドリヒは政治警察局の局長にハインリヒ・ミュラーを据えた。ハインリヒ・ミュラー、1941年

同じくハイドリヒの指揮下にあったナチ党の諜報組織親衛隊諜報部 (SD)とゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。1935年の段階でゲシュタポ本局の職員の3割がSD隊員であるなど高率であった、プロイセン州全体のゲシュタポ隊員のうちSDは9%に満たなかった(親衛隊員は全体の20%)[43]。1937年7月1日にハイドリヒは保安警察及びSD長官(Chef der Sicherheitspolizei und des SD、略称CSSD)命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、フリーメイソンなどを専管するとされ、一方ゲシュタポはマルクス主義、移民、国事犯を専管とすると定めた。教会、世界観問題、ユダヤ人、過激派、黒色戦線ナチス左派オットー・シュトラッサーの分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている[32]。しかしSDの独自行動はやまず、1936年の年末にアプヴェーアドイツ国防軍防諜部)とゲシュタポは権限分画を定めた協定を結んでいたが、SDがゲシュタポや官庁に対する監視活動を続け、アプヴェーアは「(SDが)国防上捨て置けない存在」になっていると訴えるほどであった[44]

1938年1月には内務省が定めていた「保護拘禁規則」が改定された。これにより保護拘禁の権限はゲシュタポにしかないことが明確に定められた。また保護拘禁の対象は政治的敵対者に限定されず、「その行動が民族や国家に危険を及ぼす者」全てに適用されることとなった。これによりこれまで「予防拘禁 (Sicherungsverwahrung)」[# 5]によって強制収容所へ入れていた「反社会分子」をゲシュタポが保護拘禁で強制収容所へ送ることができるようになった[46]

ゲシュタポは強制収容所に収容する者の選定権を有したが[47]、収容所そのものの管理権はなかった。これはヒムラーに直属するテオドール・アイケ(戦時中にはリヒャルト・グリュックス)の指揮下にある親衛隊髑髏部隊にあった。ハイドリヒは強制収容所の管理権を欲しがり、その種の工作をしていたが、ハイドリヒへの権力集中を恐れていたヒムラーは最後までこれを認めなかった[48][49]

1938年1月から2月に保安警察は国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将の失脚事件(ブロンベルク罷免事件)に関与した[50][51][52]

1938年6月23日には保安警察の警察官はすべて親衛隊に入隊せねばならない旨の政令が出され、ゲシュタポと党との一体化が進んだ[41]。11月11日にはSDが保安警察を支持するため国家の命令に従うという内相布告が行われ、SDの再編問題が課題となりつつあった。1939年9月27日にはヒムラーの布告により国家機関である保安警察とSDがハイドリヒを長官とする国家保安本部(親衛隊の組織)の下に束ねられた[53]。SDは同本部の第二局 (世界観調査)、第三局(内国情報)、第六局(外国情報)に分割され、ゲシュタポは第IV局 (Amt IV)、クリポは第V局 (Amt V) に配された[54]。国家機関と党機関の区別はなくなり、ナチ党が国家機関を飲み込んだ型になった。ハイドリヒは公式には国家保安本部長官ではなく保安警察とSD長官を名乗った[55]。これは国家と党の両方からの介入を受けないための措置であった。ここに国家・党を上回り、総統のみに直属する執行機関が成立した[55]。ゲシュタポは国家保安本部の一部局となり、ハインリヒ・ミュラー局長の下に1職員数は約4万5000人に膨張した(1943年の最大規模時)[56]。このミュラーは「ゲシュタポ・ミュラー」の異名を取るようになった[57]
戦時中左からフランツ・ヨーゼフ・フーバーアルトゥール・ネーベ、ヒムラー、ハイドリヒ、ミュラー。1939年11月、ミュンヘンにて

第二次世界大戦中、一時ドイツはヨーロッパのほぼ全域を占領下におさめ、ゲシュタポの活動もヨーロッパ中に拡大されることとなった。戦時中のゲシュタポは、ドイツ国内でも占領地でも保護拘禁と強制収容所移送を徹底した。特に1941年6月に独ソ戦がはじまると東ヨーロッパでそれは顕著となった[58][要文献特定詳細情報]。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:93 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef