ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
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ポパーハイエクといった論客からマルクス主義とその実践において根深い全体主義的傾向はヘーゲルに由来しているという主張[注釈 14]もあるが、現代の研究者の中でヘーゲル評価は変化している[注釈 15]。また、マルクスは、ヘーゲルによって弁証法が神秘化され、不確かな観念論がドイツ哲学を大きく歪ませたと批判した。ただし、マルクス主義的な視点からのヘーゲルの哲学解釈には曲解があるとの見解もある。ヘーゲル研究者の見田石介もヘーゲルを「神秘的観念論者」だと位置づけている。

当時、あらゆる学問分野を「百科全書的」に網羅した「体系」を作ろうとした。その範囲は、自然科学、人文科学、社会科学の全てを含むほか、教育者としてのヘーゲル、政論家としてのヘーゲルなどの側面も持つ包括的なものである。ヘーゲルが構想した方法論的哲学体系の射程は、現代をもその圏内に捉えているとも呼ばれている。他方、「ヘーゲルに倫理学なし」の批判は以前よりつきまとっている。これは、ヘーゲルが個人倫理学よりも社会科学的問題解決を重視したと見られているからであり、倫理的に生きるには倫理的な法を持つ国の国民になればよいというヘーゲルの言葉に、その思想がよく表れている。

ヘーゲルの文体は難解なものとして知られ、一文字ずつなめるように読んでいき、読書を通じてヘーゲルの思考過程を追体験することが必要とされている。言葉の定義があいまいだという不満も多いが、そもそもヘーゲルの弁証法においては概念の自己運動にあわせて言葉が動いていくものであるから、言葉の定義を問うこと自体が無理な構造となっている。他方で、哲学的体系性や整合性を離れた場所で書かれる各書の序文や、教育・政論の分野では、勢いに満ちた名文も多いと評される。

ヘーゲル独自の弁証法論理学は、従来の形式論理学とは大いに異なるものである。それはヘーゲルが、一般的な形式論理学を乗り越えて、真に正しくかつ現実的な論理を把握しているという確固たる自負を持っていたからである。そのため、現代の数学的論理学とは必ずしも親和性が高いわけではないが、逆に、その仏教論理学や量子力学への近似性を唱える者もいる。自然哲学の分野でも、ヘーゲルの今日的読解を進めているケースがある。ヘーゲル論理学の重要な理念は、「(論理の)構造の豊かさこそが真理である」という構築主義的な発想である。その本質的な表現のひとつとして、例えば「質」と「量」の中間項ないし「止揚」理念として「限度/度量/度合」(Mas)の概念が打ち出されていることに端的に表れているように、多くの場合、単純な二分法的思考内容はより俯瞰的・包括的な次元へと高められて、より新たな段階である総合的な概念が提示される。社会科学的にはヘーゲルは右派からも左派からも批判の対象となってきた。ヘーゲル哲学からはカール・マルクスのような左派も、フランシス・フクヤマのような右派も生まれた。このような分派はヘーゲルの死後、激しくなった。

キルケゴールニーチェなどの実存主義哲学では、ヘーゲルは悪しき理性主義の象徴のように批判されてきたが、宗教についての卓越した認識や広義における「理念」を内包しているヘーゲルの「理性」概念は、百科全書派のような啓蒙思想でいう「理性」や後の19世紀末以降の記号論理学的な意味での「理性」とは明らかに一線を画している概念であり、正しく理解された上での批判だったとは言えない面がある。

哲学者ではなく小説家としてのヘーゲルを説く者もいる。「精神現象学」は学問としての哲学というより、個人の魂がどのように成長していくかを説いた書であるとして、ゲーテ等に見られる「教養小説」として読むほうが正しいという意見である。この意味でヘーゲルは「経験」の哲学者と言われる。なお、早熟のシェリングと比べ、遅れてきた努力家という位置づけをされることがあり、ヘーゲルには若い頃と成熟期で思想に変化が見られる。そのため時期的な変遷を考慮せず、安易にヘーゲル一般を語ることは、現在の研究水準では望ましいことではない。バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』("History of Western Philosophy"、1945年)の中で、ヘーゲルのことを、最も理解が困難な哲学者であると書いている。彼によれば、ヘーゲルは当時の現在誤っているとされている論理学に基づき、壮大な論理体系を作り上げたのであって、そのことがかえって多くの人に多大な興味を持たせる結果になったのである。
用語

即自
(an sich)

対自 (fur sich)

即且対自 (an und fur sich)

弁証法 (Dialektik)

止揚 (aufheben)

世界精神 (Weltgeist)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」。その内部はオーストリア帝国プロイセン王国バイエルン公国など大国、ヴュルテンベルク公国ハノーヴァー公国ザクセン公国などの中規模の領邦、そしておよそ300余りの小領邦に分かれており、統一国家の態をなしていなかった。奈良県ほどの大きさのヴェストファーレン地方の場合、52もの領邦が犇めいていた。それぞれ諸邦は、王領や選帝侯領、司教領、大公領、伯領など世襲の独立国家で行政、立法、司法の機構と官僚制度が存在し、農奴である人民を治めていた。さらに、当時の領邦君主はフランス式の豪奢な宮廷生活を営み、快楽と遊興に耽り乱費を重ねていた。当然ながら財政的負担は一般の人々が背負い、その負担は過酷なものとなっていた[3]
^ ヴュルテンベルク公国は1495年がウォルムスの帝国議会で髭のエーベルハルト伯が公爵位を授かって建国されたことに由来をもつ。ヘーゲルが誕生した時代、時の大公は初代から数えて12代目カール・オイゲン公であった[4]。カール・オイゲン公の統治はプロテスタント国のヴュルテンベルク公国にあってカトリックを信仰し、ホーヘンハイム宮殿など豪壮な宮殿を造営し、豪奢な宮廷生活を営むなど絶対主義的な専制政治であった[5]七年戦争に参加を決定し、領民を強制的に徴募し軍に入隊させるといった圧政、民会に戦費の供出を要求し軍を派遣して国費を強奪するなどの専横をおこなった。専制的な君公に対して民会はたびたび抵抗の姿勢を見せ、七年戦争の敗北を前に総会を招集する共に帝国裁判所に提訴した。七年に及ぶ法廷闘争を通じ、イングランドなど大国を調停人として相続協定と呼ばれる協定が締結され、子のいないカール・オイゲンの大公位の継承権を二人の弟に与えることに加え、君公の権限の制限と民会の権限の確認がおこなわれた[6]。ヘーゲルの幼少期は公国の立憲政治の根幹となった相続協定成立後の比較的平穏な時代に位置していた[7]
^ 1792年9月20日「1791年憲法」が廃止され国民議会は解散となり、新憲法に下に成人男子選挙制に基づく国民公会へと移行した。国民公会のもとで国王の裁判が行われ、有罪判決が言い渡された国王ルイ16世は、1793年1月21日処刑された。さらに、対外戦争での苦戦からジロンド派の支持が急速に縮小、ついにジャコバン派によって国民公会を追放された。封建的特権の廃止のもと農民への土地の無償分配がおこなわれた。10月には革命暦が制定され、10月16日マリー・アントワネットが処刑される。さらに11月にはキリスト教信仰が廃止され、「最高存在」の崇拝が布告された。
^ ジャコバン派は独裁権力を掌握してダントン派やエベール派など政敵をつぎつぎと粛清していく。しだいにロベスピエールが主導する公安委員会と革命裁判所による独裁へと向かっていった。自由・平等・友愛の理想はギロチンに取って代わり、人権宣言は空言となっていった。1794年、テルミドールの反動によってロベスピエールは捕えられ処刑される。フランスはテルミドールの反動を主導したポール・バラスによる政治腐敗の時代に入っていく。
^ 1799年、ナポレオンの第一次イタリア遠征によってフランスの影響下に入っていた北イタリアをオーストリア帝国が奪回する。再びフランスは危機に陥り、国民の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていった。エジプトに遠征中だったナポレオンは密かにフランスへと戻り、11月9日、ブリュメール18日のクーデターを起こして第一執政になり事実上独裁権を握った。


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