ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
[Wikipedia|▼Menu]
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテフリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるポートレイト
概要

1770年8月27日神聖ローマ帝国の領邦国家ヴュルテンベルク公国の首都シュトゥットガルトでプロテスタント家庭の官吏の息子に生まれる。13歳で教育熱心な母を亡くしたものの、勉学への熱意を高めていった。1788年、チュービンゲン大学に入学。寮生活をしながら神学や哲学を学び、ヘルダーリンシェリングと親密な交友関係を築いていった。在学中にはギリシア文化に加えてカント哲学を学び、啓蒙主義と1789年フランス革命の勃発に触発を受けてさらに向学の意欲を高め、キリスト教史に関する研究をおこなった。

卒業後1793年から1800年までスイスの首都ベルンで、次いでフランクフルトで家庭教師をしながら、政治研究に専心する。恐怖政治期のフランスや都市有力者の寡頭支配にあったスイス、領邦分立のドイツに批判的な立場を強めていった。1801年、シェリングが大学教授を務めていたイエナ大学の私講師となり、シェリングと共同研究をおこなってカントとフィヒテを批判する論文を執筆していたが、次第に独自の立場を形成して1807年に『精神現象学』を刊行、シェリングを批判しシェリングとの友情は途絶える。折しも、イエナ会戦でプロイセン王国ナポレオンに敗北したためにイエナ大学は閉鎖され、職を失うこととなった。フランス軍によるイエナ占領のなか行進中のナポレオンを目撃、ナポレオンを「馬上の世界精神」と評している。1808年から1816年、生活を守るため、友人のニートハンマーの斡旋でバンベルクで新聞社の編集者になり、ニュルンベルクで中等教育機関ギムナジウムの校長となった。教科書編纂を目的に体系哲学の書『大論理学』『エンチクロペディー』を執筆した。1811年都市貴族の娘と結婚、幸福な家庭生活を享受して、二人の男子をもうけている。

1816年、ハイデルベルク大学の教授職を手に入れ、学問的評価を確立していく。二年後の1818年、ベルリン大学の教授に招かれた。1821年、後期の代表作『法の哲学』を発表, 数々の講義を担当し、教壇に立って学生の心を捉えてヘーゲル学派を形成した。プロイセン改革(英語版)の積極性を支持したことによりプロイセン政府の好感を手にし、急進的なブルシェンシャフト運動を抑止する目的で、1829年大学総長に選出された。

1831年11月14日 当時猛威を奮っていたコレラに倒れ、急逝。

古典に通じた慧眼で現実的かつ理想的な哲学を展開し、同時代のみならず後世にも大きな影響を与えた。主な著作は『精神現象学』、『論理学(大論理学)』、『エンチクロペディー』、『法哲学・要綱』がある。

歴史哲学』『美学』『宗教哲学』は、没後 弟子たち(ヘーゲル学派)により 講義と聴講生のノートとを中心に編纂されたものである[2]
生涯
幼少期1789年時点の神聖ローマ帝国。南西部の黄色部分がヴェルテンベルク公国。中小の領邦が分立している。シュトゥットガルトのヘーゲルの生家、 現在はヘーゲル博物館となっている

1770年8月27日神聖ローマ帝国[注釈 1]南西部に位置するシュヴァーベン地方ヴュルテンベルク公国[注釈 2]シュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)のエーバーハルトシュトラーセ53番地に居を構える中流家庭に生まれる[8][9]。父親はヴュルテンベルク政府の公務員だったゲオルグ・ルートヴィヒ・ヘーゲル(1733年-1799年)。母はマリア・マグダレーナ・ルイーザ・ヘーゲル(旧姓フロム、1741年-1783年)[10]。詳細は「ヴュルテンベルク公国」を参照

18世紀後期のドイツ社会はシュトゥルム・ウント・ドラングの時代に当たり、ゲーテ(1749-1832), シラー(1759-1805)フィヒテ(1762-1814)が活躍を見せた[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:338 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef