ゲオルギー・ジューコフ
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生い立ちゲオルギー・ジューコフ(1916年)

1896年12月1日にロシア帝国のモスクワ近郊のカルーガ県(当時のモスクワ州内)マロヤロスラヴェツ郡ウゴツコ・ザヴォーツカヤ郷のストレルコフカ村に誕生した。彼の家庭は農閑期には行商に出る半農半商の家庭であった。父のコンスタンチンは靴職人で、母のウスチーニャは農業をしていた。ジューコフという姓は甲虫を意味するジュークに由来する。ジューコフは自身の回顧録で母が35歳、父が50歳の時に再婚したと記している。一方でジューコフの末娘マリーヤの記録だとジューコフの父は41歳、母は26歳だった[1]。ジューコフは次男であり、2歳上の姉がいた。彼が5歳の時に弟のアレクセイが生まれたが、1年もしないうちに死亡した。ジューコフ一家は深く悲しみ、ロシア正教会の洗礼を受けた。マリーヤによるとジューコフは正教信者であり、戦場にでる時は配下の兵士に「神とともにゆかん」と唱えたという[1]

ジューコフが誕生したカルーガ県は中央産業地帯と呼ばれ、農業よりも商業が盛んだった[1]。父のコンスタンチンは仕事に恵まれず、凶作の日は近所の人にシチューをめぐんでもらい飢えをしのいだ。ジューコフは3年間の初等教育を優秀な成績で卒業し、母はお祝いにシャツを、父は新しい靴をプレゼントした。卒業後ジューコフはモスクワで毛皮職人を営む叔父ミハイルの下で修行をした。1日12時間の過酷な労働であり、先輩の職人からしょっちゅう殴られたが、ジューコフはよく働き、時間を作って夜学に通い勉学に励んだ。自習仲間だった従兄弟のアレクサンドルからドイツ語を学び、ドイツ語の知識は後に軍人としての責務を果たす上で大いに役立った。1914年には見習いを卒業し、3人の少年を使いそれなりに金を稼ぐようになった。ジューコフは自身の回顧録で若い頃は政治に関心がなく、毛皮職人の間ではそれが当たり前だったと記している。

1914年第一次世界大戦が勃発するとジューコフはアレクサンドルと共に軍に志願した。二人は毛皮職人の仲間と話し合い徴兵の年齢まで待つことに決めた。1915年夏ジューコフは軍に招集され、第5予備騎兵連隊に配属された。9月に連隊はウクライナハリコフに移動して、第10騎兵師団に合流した。ジューコフはそこで騎兵としての訓練を受けた。1916年春に騎兵の養成課程を終え、8月にドニエストル川流域に派遣された。ジューコフは前線に到着する前に爆撃を受けたが、ドイツ人士官を捕えた功績で聖ゲオルギー十字勲章を授与された。ドイツ語が堪能だったジューコフはドイツ兵を捕らえる特殊な任務に従事した。10月には偵察中に地雷で乗馬を吹き飛ばされ、ハリコフの病院に入院し、2個目の聖ゲオルギー十字勲章を手にした。
ロシア内戦時代ジューコフと最初の妻アレクサンドラ・ジーエヴナ(1920年代)

十月革命が勃発すると、陸軍内部ではソビエトが結成された。ジューコフは自身が所属する大隊の代表に選ばれ、連隊のソビエトに代表として参加した。ジューコフは連隊内でボリシェヴィキを支持したが、連隊ソビエトは反ボリシェヴィキで合意し、ジューコフの大隊は解散した。1917年末には故郷に戻り、赤軍への入隊を試みたが、チフスにかかり半年間身体を休めた。1918年10月1日赤軍第1モスクワ騎兵師団の第4騎兵連隊に勤務した[2]。1919年3月1日にはロシア共産党に加入した[2]

加入の際党書記局書記トロフィーモフや党委員のウォルコフに詳しい説明を受けた[2]。第四騎兵連隊がウラジミロフカ駅方面に移動するとジューコフは自身と同姓の団党委員ゲオルギー・ヴァシリエヴィチ・ジューコフと出会い戦線や国内の情勢を語りあった[2]。ヴァシリエヴィチはジューコフを評価し赤軍幹部養成課程に推薦したが戦況の変化により実現しなかった[2]。反革命の旗印をかかげるデニーキン軍がツァリーツィン、ボリソグレープスク(英語版)、バラショフ(英語版)、クラスノグラード(英語版)その他重要地点を占領すると、ジューコフが勤務する第4騎兵連隊はツァリーツィン郊外の防衛戦に参加[2]。ザプラウノエとアフトゥーバの中間でカルムイスク白軍部隊と白兵戦の最中、ジューコフは手榴弾で負傷し1か月間野戦病院に入院した[2]。そこで出会ったのが若い女子大生マリーヤ・ヴォルホワだった[3]。後に彼女はジューコフの娘を産んでいる。ジューコフは前線への復帰を願い出たが身体の衰弱を理由に赤軍幹部候補過程に回され第1リャザン騎兵学校に派遣された[2]

第1騎兵中隊曹長としての学生資格を与えられ、同時に講師として刀剣術訓練(槍術剣術)・銃剣術教育・教練・体操訓練の訓練を委任された[2]。ジューコフは全ての科目で優か良を取り優秀な成績を収めた。半年間学んだ後ジューコフら学生は軍用列車に乗せられ南ロシアヴラーンゲリ戦線に送られた[2]。反革命軍の代表的指導者であるヴラーンゲリ将軍は連合国の支援を得てクリミアから攻勢を開始していた[2]。1920年8月ジューコフら学生達は混成連隊に編入されヴラーンゲリ軍の掃討に参加した[2]。ジューコフを含む優秀な学生は期限前に卒業を認められヴラーンゲリ軍との戦いで士官を失った騎兵部隊に配属され、ジューコフ自身は第1騎兵連隊に勤務した[2]。ジューコフは第2小隊の指揮官となりプジモールスキー地区の残存匪賊掃滅作戦で功績を上げ、第2中隊長に任命された[2]。反革命派のアレクサンドル・アントーノフが軍を蜂起するとソビエト政府はタンボフ県に司令部を設置した[2]

ゲリラ戦で大部隊との戦闘を避けたアントーノフ軍は手薄な場所を狙い後方を撹乱した[2]。アントーノフに手を焼いた赤軍はミハイル・トゥハチェフスキーに討伐の指揮を任せた[2]。ジューコフを含む赤軍の兵士達はトゥハチェフスキーの作戦能力の高さを耳にし、才能ある司令官の赴任を喜んだ[2]。第14独立騎兵旅団本部を訪問した際にジューコフはトゥハチェフスキーが旅団長と対談する席に居合わせた[2]。後にジューコフは自身の回顧録でトゥハチェフスキーの判断には彼の広い知識と大規模な作戦指導の経験とを感じとられたと語っている。

ジューコフはトゥハチェフスキーの下でアントーノフ軍と戦い、自ら白兵戦に参加し2度落馬するほどの激戦を繰り広げた[2]。ジューコフは1920年10月にヴォロネジで最初の妻となるアレクサンドラ・ディエブナと出会い、同年結婚している[4]
騎兵将校時代第39ブズルーク騎兵連隊司令官ジューコフ(1923年)

1921年ロシア内戦が終わると、赤軍は動員を解除し、総兵力は500万人から50万人に減少した[5]。ジューコフは軍に残り、1922年には大隊指揮官に昇進している。騎兵部隊は赤軍の中でも人材・資材・技量において高い水準を保ち、後にジューコフが台頭する基盤となった[6]。党の方針が最優先されたソビエトの官僚組織の中で、赤軍のみが例外的に創造的で活気に満ちていた[6]ミハイル・フルンゼの改革により赤軍は近代的職業軍へと変貌をとげ、ジューコフにとっても働きやすい環境となっていた[7]


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