1979年2月、アルバム『ブラック・ローズ』リリース。7月4日、アメリカ・ツアー中にマネージメントに嫌気がさしてグループを離脱、ロサンゼルスにて元ディープ・パープルのグレン・ヒューズと、シン・リジィのサポートを務めたことのあるマーク・ナウシーフとで活動を開始する。 同年9月MCA最後のシングル「Spanish Guitar」をリリース。 グレン・ヒューズとのグループは頓挫したものの、元CBSのディレクター、ドン・アーデン(シャロン・オズボーンの父親)が立ち上げたレーベル、ジェット・レコード
日本でのブレイクまで
1980年5月、イギリスでアルバム『G-FORCE』をリリース。同年6月、ホワイトスネイクのサポート・アクトとしてイギリス・ツアーを行うが、グループ活動はうまく行かずに停止させる。アルバムはアメリカン・パワー・ポップ風なサウンドを狙ったが、アメリカ国内での配給先を決定する前に、この1枚でG-Forceは解散、予定していた8月のレディング・フェスティバルへの出演をキャンセルした。ジェット・レコードは同年11月にマーキー・クラブでライブ・レコーディングを行う。メンバーはドン・エイリー、アンディ・パイル、ケニー・ドリスコール、そしてアメリカから招いたトミー・アルドリッジであった。
1981年、スタジオ・アルバムの制作をドン・エイリー、ジミー・ベイン、トミー・アルドリッジ、シャーリー・ハーンとで行なったが、別の日本からのオファーによるドラム奏者、コージー・パウエルのソロ・アルバム制作を同時に行なったことが原因で、ジェット・レコードとの間の契約違反事項となり、ムーアのソロ・キャリアはしばらくの間、問題への対処のため活動を制限されることを余儀なくされた。
ジェット・レコードとの契約解消のためにソロ活動を封じ、同じマネージメントに所属をしていたグレッグ・レイクのソロ・アルバム『グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア』に参加する必要があった。レイクの復活ツアー・メンバーにてムーアがバンマスを任されて、ウッドストックでジョー・コッカーの仕事をしたトミー・アイアーがサポートした。ほかにテッド・マッケンナ(センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド)、レイクが推薦したトリストラム・マーゲッツが参加。ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは自作曲「ニュークリア・アタック」を提供することで、レコーディングの報酬を得て、かねてからハード・ロック・ビジネスのマーケットに興味を持っていたサー・リチャード・ブランソンのヴァージン・レコードが裁判費用を提供してアーデンとの契約を解消。1982年、これによりヴァージン・レコードと契約し、イアン・ペイスを加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場した。同年3月から録音にとりかかったレコーディングは、9月にアルバム『コリドーズ・オブ・パワー』としてリリースされ、全英アルバムチャート最高位30位を記録した。同作は11月に日本発売され、オリコンLPチャートで最高29位となっている[2]。
1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという顔ぶれであった。プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組『ベストヒットUSA』に出演、シンコー・ミュージックから『100% Gary Moore』なる特集/スコア本も発刊された。
同年、日本公演を収めたライブ・アルバム『ロッキン・エヴリ・ナイト (ライヴ・イン・ジャパン)』が日本のみで発売された(配給は東芝EMI)。同アルバムはオリコンLPチャートで15位を記録している[2]。なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、ジェット時代の未発表作品を、その販売権を得たソニー・レコードが『ダーティ・フィンガーズ』、『ライヴ・アット・ザ・マーキー』として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライブ・アルバム『We Want MOORE!』の日本発売は見送られた。
ギター・ヒーロー期イングランド・マンチェスター公演 (1985年)
1984年初頭、ソングライターのニール・カーターとの共同作業で制作されたアルバム『ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー』をリリース、2月に初の日本武道館での公演を含む2度目の来日公演をおこなった。メンバーはカーターにペイス、クレイグ・グルーバー(エルフ、レインボー)。同年、イアン・ペイスはディープ・パープル再結成のためバンドを去り、7月のアメリカ・ツアーはセッション・ドラマーを起用して続行された。グルーバーはモンスターズ・オブ・ロック出演後に解雇され、1984年の冬からはボブ・デイズリーがベーシストとして参加しているが[3]、ドラマーはその都度用意された。
これを境に様々なドラマー、エレクトリック・ドラムスやプログラミング・ドラムを導入する傾向となる。そして同年、ケルト風ポップ・ソングでヒット曲を持っていたニック・カーショウを手がけたプロデューサー、ピーター・コリンズをリミックスに起用したシングル「Empty Room」がイギリスで最高位51位を記録する。
12月、北アイルランド・ベルファストのアルスター・ホールにて凱旋コンサート。アンコールでのフィル・ライノットとの共演がハイライトとなった。この演奏の模様はドキュメント・フイルム『エメラルド・アイルス』(VHS)に収められてリリースされた。
1985年、ライノットとの共演シングル「アウト・イン・ザ・フィールズ (Out in the Fields)」をリリース。2人の共演は話題を呼び、イギリス国内で最高5位を記録するヒットとなった。9月にはアルバム『ラン・フォー・カヴァー』をリリース。同月からの数公演でライノットがスペシャル・ゲストとして参加。メンバーはニール・カーター、ボブ・ディズリーにゲイリー・ファーガソン (Gary Ferguson)。10月に3度目の来日公演をおこなっている。
1987年には故郷のアイルランドを主題としたアルバム『ワイルド・フロンティア』をリリースし、ノルウェーのアルバム・チャートで1位を記録する[4]。このアルバムは、前年に亡くなった盟友フィル・ライノットに捧げられた。ドラマーにはエリック・シンガーが選ばれ、同年4月、スウェーデン・ストックホルムにてドキュメント・フイルム『Live At Isstadion』(VHS)を収録。7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演した。
1988年初頭、前作の路線を引き継いだニュー・アルバムのレコーディングを開始。オジー・オズボーン、サイモン・フィリップス、コージー・パウエルらが参加した『アフター・ザ・ウォー』は、ベルファスト合意後の1989年にリリースされた。