ゲアハルト・シュレーダー
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高級な背広葉巻という労働者政党のトップらしからぬ装いで「ボス同志」[注 1] と揶揄される。

1999年、政策的に対立していた党内左派のオスカー・ラフォンテーヌ党首に代わって、SPD党首となる。この年前半のコソボ紛争ドイツ連邦軍は戦後初めて戦争に参加、激しい議論を呼んだ。また同年、環境税を導入した。

2000年2月、IT技術者確保のためにグリーンカード(ドイツ語版)制度を導入。首相お膝元のハノーファー万国博覧会ハノーファー万国博覧会)を開催するが、大失敗に終わる。

2000年7月には第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)に出席するため、首相就任後初となる来日で沖縄県を訪問。サミット終了後には、専用機で宮古島に飛び、以前ドイツ人を助けた、所縁のうえのドイツ文化村を訪れた。その道路は「シュレーダー通り」と名付けられた。

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件を受け、「アメリカ合衆国との無制限の連帯」を表明。ドイツ連邦軍の「不朽の自由作戦」参加を決定。ドイツ軍はアフガニスタンでの国際治安支援部隊(ISAF)の活動に、北大西洋条約機構(NATO)の一員として現在も参加している。11月、年金改革法案可決。12月、将来の原子力発電所全廃を決定。

2002年6月の第28回主要国首脳会議(サミット)終了後、サッカーワールドカップ決勝戦を観戦するために、日本の政府専用機に搭乗して訪日[注 2]。8月にエルベ川が大洪水を起こし、現地に乗り込んで対策を指示。ドイツ再統一後も経済不振の続く旧東ドイツの開発重視は政策の一つでもあった。同月の連邦議会選挙で「ドイツの道」を提唱し、アメリカによるイラクへの攻撃反対を訴えて辛勝。首相に再任。12月、中華人民共和国同済大学より、名誉博士号が授与される。この年、シュレーダー政権の改革政策を風刺した「税金の歌」(: Der Steuersong)(ラス・ケチャップの「アセレヘ ?魔法のケチャップ・ソング?(英語版)」の替え歌で、エルマー・ブラント(英語版)が「ゲルド・ショー(英語版)」名義で歌唱)が7週間にわたりシングルのヒットチャート1位となる。良くも悪くも、前例のない「メディアの宰相」だった。

2003年3月、経済のグローバル化成長戦略を視野に入れた改革プロジェクト『アゲンダ2010』を発表。その内容が新自由主義的であるとしてSPDの伝統的な支持基盤である労働組合から批判される。この年3月に起きたイラク戦争にはフランスと共に国連決議抜きでの開戦に反対し、派兵しなかった。

2004年、高い失業率や保険制度改革(削減)が不評で政権への不満からデモが頻発。SPDの支持率が低下したことを受け、3月にSPD党首を辞任(後任は幹事長のフランツ・ミュンテフェーリング)。5月に欧州連合(EU)が東欧までの25ヶ国に拡大し、EUの地理的・経済的中心国としてのドイツの役割が大きくなる。地方議会選挙の連敗により連邦参議院で与野党逆転を許し、野党が擁立したホルスト・ケーラー大統領当選を許す。7月、移民受け入れに関する新法を可決。

2005年失業者が戦後最多500万人を突破した。ロシアからバルト海を通ってドイツに天然ガスを送るという、物議があったノルド・ストリーム建設についてロシアとパイプライン計画に合意した。パイプラインによりドイツのエネルギー供給は、ロシア国営企業への依存を強めることになる[2][3]。地方議会選挙での連敗を受けて、7月に内閣信任案を与党に否決させ、連邦議会を解散[注 3]。これによって9月18日に総選挙の投票が実施される。SPDは圧倒的に不利という事前の予想を覆して善戦したが、野党キリスト教民主同盟(CDU)側に4議席及ばず議会第二党へ転落。長い協議の末首相の座を退き、CDU党首アンゲラ・メルケルにその座を譲ることになった。東ドイツで育ったメルケル新首相は東欧諸国を重視しており、(ドイツ語英語に加えて)ロシア語も話せるが[4]、シュレーダーの(フランスだけでなくロシアとの協力を重視する)「パリ-ベルリン-モスクワ枢軸」を外交政策の方針から削除した[3]

11月29日には議員も辞職して政界から離れる。首相退任直前の10月、トルコエルドアン首相と共に、キリスト教圏の首脳として初めてイスラム教断食開けの祭に参加。イラク戦争への反対姿勢と共に、イスラム圏には好意的に受け取られた。トルコのEU加盟にも賛成している。
首相退任後

2006年3月、ロシア国営天然ガス会社ガスプロムの子会社「ノルド・ストリームAG」(ドイツ語版、英語版)の役員に就任。バルト海底を経由してロシア・ドイツ間をつないだ天然ガスのパイプラインであるノルド・ストリーム1やノルド・ストリーム2の取締役を2017年時点でも長期にわたって利益を得ていることに批判の声がある[5]。そのほかにスイスにあるロスチャイルド投資銀行ヨーロッパ支部相談役、スイスのRingier出版相談役を務める。2006年に自伝を出版したが、在任中からロシアとの癒着が疑われ、批判された。ロシアでビジネスキャリアを積み、ノルド・ストリーム社の株主委員会の会長を務めている[2]

2007年5月、中華人民共和国外交部顧問に任命。伝統的中国医学を世界に宣伝する役割を負う。成長著しい中国市場を重視し、首相在任中は毎年訪問してリニアモーターカー上海トランスラピッド)の売り込みなどをしていた。同年9月、チベットダライ・ラマ14世を首相官邸に招いて会見したメルケル首相を「中国国民の感情を傷つけ、両国の友好を損ねた」と講演で批判している。2008年8月にはメルケル首相は参加しなかった北京オリンピックの開会式に出席した[6]

2014年4月28日にウクライナクリミア危機でロシアがクリミア半島を併合する中、ロシアのかつての首都であったサンクトペテルブルクの宮殿で70歳の誕生日をウラジーミル・プーチン露大統領と抱擁して祝った。


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