ケープコッド
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暖かいメキシコ湾流に影響されていると通常考えられがちであるが、メキシコ湾流はバージニア沖で東方に海岸から離れるので、ケープコッドの海域は冷たいカナダラブラドル海流の影響を多く受けている。ケープコッドの気候は、冬の冷たさが残っている大洋に囲まれている春は遅くまで評判が悪い。しかし、夏の暖かさが残っている海洋のお陰で秋はことの他過ごしやすいことで知られている(インディアン・サマー)。ケッペンの気候区分ではニューイングランドのほぼ全域が冷帯湿潤気候(DfaまたはDfb)に属することになっており、ケープコッドも例外とはされていないが、計算上は温帯西岸海洋性気候(Cfb)にあてはまる。

ケープコッドの周りの海は冬の寒さを和らげ、農務省の耐寒性地域7を北アメリカ東部の北限まで広げている。[1] その結果、南の方で育つ植物がケープコッドでも見ることができる。例えばツバキ、イレックス・オパカ(モチノキ科)、ネムノキおよびアラウカリア・アラウカナ(ナンヨウスギ科)である。

ケープコッドとマーサズ・ヴィニヤードやナンタケットの諸島地域の降水量はニューイングランドの中でも少ない方であり、年間平均降水量は1,000 mmに満たない(ニューイングランドの大部分では1,070 mmから1,170 mm)。これは西方の地域を移動する暴風帯が山岳地で作られ、海岸に到着する前に標高の高い地域で湿り気を落としてくるからである。しかしこの地域は晴天日数が少ない。曇りの日数は内陸部と変わらないが、霧の日が多いからである。

月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年間
平均最高 °F
(℃)35.7
(2.1)36.5
(2.5)43.2
(6.2)53.1
(11.7)62.5
(16.9)74.3
(23.5)79.5
(26.3)80.0
(26.7)77.1
(25.2)65.1
(18.4)54.6
(12.6)41.8
(5.4)58.5
(14.7)
平均最低 °F
(℃)22.4
(-5.3)23.0
(-5.0)29.6
(-1.3)36.9
(2.7)47.7
(8.7)58.3
(14.6)66.6
(19.2)68.5
(20.3)60.0
(15.5)49.9
(9.9)39.1
(3.9)28.0
(-2.2)44.1
(6.7)
降水量 in inches
(mm)3.86
(98.0)2.97
(75.4)3.74
(95.8)3.62
(90.4)3.29
(80.3)3.02
(74.2)2.45
(62.2)2.56
(67.6)2.94
(75.9)3.34
(81.3)3.57
(90.7)3.65
(92.7)39.01
(990.85)

先住民族

ケープコッドは何世紀もの間、先住民族のワンパノアグ族の住処であった。ワンパノアグ族は海産物で生活し、農業も行った。持続可能な森の管理原則を理解し下生えを燃やして管理する方法も知っていた。ワンパノアグ族は1620年に到着したピルグリム・ファーザーズを助け、出来たばかりのプリマス植民地で生き残らさせた。

先住民族はイギリス開拓者の購入と没収で土地を失っていった。現在ケープコッドにはインディアン居留地が無い。「狭い土地の先住民」(Natives of the Narrowland')というドキュメンタリー番組は、1993年に放映され女優のジュリー・ハリスがナレーションを務めたものだが、ケープコッドの考古学的場所にレンズを通してワンパノアグ族の歴史を紹介した。1974年、先住民族の先祖に関することをはっきり述べるために、マシュピー・ワンパノアグ族審議会社が作られた。連邦政府は1975年と1990年の二度、マシュピー・ワンパノアグを「民族」として公式に認めるよう請願を受けた。2007年5月、ワンパノアグ族はやっと連邦政府によって民族と認められた。[6]
歴史

「(ケープコッドは)、飢えた犬が群れをなしてさまよう広い陰気な場所である。地球上で最も興味をそそらない景色である。」 - ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

ケープコッドは初期の探検家達の目印であった。おそらく北欧の航海者レイフ・エリクソン (970年頃 - 1020年頃)が言った「ヴィンランドの岬」はここであろう。1524年イタリア人探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノはここに南から接近し、スペイン人のエステバン・ゴメスはその翌年にセントジェイムズ岬と名づけた。1602年イギリス人バーソロミュー・ゴスノルドが現在の名称に変えた。フランスサミュエル・ド・シャンプラン1606年にそこの砂で埋まった港の海図を作った。イギリス人ヘンリー・ハドソン1609年にケープコッドに上陸した。イギリスの船長ジョン・スミス1614年に彼の地図にケープコッドを載せた。そして1620年ピルグリム・ファーザーズは、まず「ケープ・ハーバー」に入り(一般にはプリマス・ロックと信じられている)、11月11日に現在のプロビンスタウン近くに上陸した。その近く、現在のイースタムで、初めて先住民族と遭遇した。ナンタケット・サウンドに面するハイアニス港ケネディ家の別荘地ケネディ・コンパウンド。ハイアニス (マサチューセッツ州)の南に位置するハイアニス・ポートの海岸沿いに広がる

ケープコッドは北アメリカで最初にヨーロッパ人が入った場所の一つである。バーンスタブルやサンドイッチ(1638年)およびヤーマス(1639年)は別として、ケープコッドの15の町はゆっくりと成長した。ケープコッドにできた最後の町はマシュピーで1880年のことだった。プロビンスタウンは18世紀まで一群の小屋があるだけだった。マサチューセッツ湾からバザーズ湾に至る水路が1717年のサザックの地図に見られるが、現在のケープコッド運河は1870年から1914年まで難儀して工事が進められた。連邦政府はこれを1928年に買収した。

初期の入植と激しい土地の使い方のお陰で、1849年から1857年にヘンリー・ソローがその4度の訪問を行った時までに、植物は発育不良となり樹木は稀になった。暖房はすべて木に頼っており、1軒の家で40ないし80 m3の薪を要したので、ケープコッドの樹木は直ぐに無くなってしまった。他の地域にはイギリス人に馴染みのある穀物を植えたが、ケープコッドの薄い氷河が運んできた土には向いていなかった。例えばイースタムでは多く小麦を植えた。森林の野焼きは土壌に栄養を与えるために普通に行われていた。不適切で過剰な農業は表面度の侵食と喪失に繋がった。アウター・ケープの砂丘が至る所にあり、多くの港は侵食された土で埋まった。1800年までに、ケープコッドで必要とされる薪は舟でメインから運ばれてくるようになった。植生の不足は、メリノ種の羊と1840年頃にニューイングランドでピークを迎えた毛織物マニアによってさらに悪化した。マサチューセッツやロードアイランドで起こった産業革命の初期、ケープコッドはそこに水資源が無かったために置いて置かれた。その代わりに、その地理的な位置づけから大規模漁業捕鯨業の基地として栄えるようになった。1860年以後アメリカの西部が開拓されケープコッドでは農業が捨てられ始めた。1950年までに18世紀以来絶えて無かった森林が形成された。

ケープコッドはアッパー・ケープの町への鉄道輸送が改善されて、19世紀の末に始まる多忙な都市生活者の夏の安息の地になった。ボーンやファルマスへはボストン市民が利用し易くなった。20世紀の初めには、多くの大きな「コテージ」が、北東部商人上流層のためにバザーズ湾沿いに建てられた。ケープコッドで過ごせるゆったりとした夏の環境は、「サタデー・イブニング・ポスト」や「デリニエーター」などの人気のある雑誌にケープコッドの人々について数え切れないくらい多くの短編を出版したジョセフ・C・リンカーンなどの作家によって、全国民の注意を引き付けることになった。

グリエルモ・マルコーニはケープコッドのウェルフリートでアメリカ起源の大西洋間無線通信に初めて成功した。マルコーニが初めて無線通信を送った海岸はマルコーニ海岸と呼ばれるようになった。この成功に基づいて、マルコーニは1914年に海岸無線局WCCをチャタムに開局した。これはアメリア・イアハートハワード・ヒューズリチャード・バードおよびヒンデンブルクとの通信にも一役買った。マルコーニはチャタムの大西洋に向かって三方を海に囲まれた見晴らしの良い地点としてこの場所を選んだ。ウォルター・クロンカイトはチャタムの放送局の歴史について2005年に17分間のドキュメンタリーを放送した。

ケープコッドの大西洋側東面の海岸の大半は広い砂浜である。ケネディ・コンパウンドと呼ばれるケネディ家の一大別荘地があることでも知られる。1961年ジョン・F・ケネディ大統領によって、この海岸の意義ある部分がケープコッド国定海岸の一部に指定され、以後開発から保護されている。ウェルフリートの「マルコーニ・サイト」を含め、大半の場所は出入り自由であり、最初の双方向大西洋間通信(セオドア・ルーズベルトがマルコーニの器械を使った)が行われた場所の周りには公園が造られた。
ケープコッドの灯台


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