ケーブルカー
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特殊な物では北海道札幌市藻岩山ミニケーブルカー(もーりすカー)が、車台の左右に「∧」形の支柱を立てて間に梁を渡し、そこにゴンドラリフト搬器に似た形のキャビンを吊り下げたブランコのような構造で、これを前後方向に2基並べて車両を構成しており、どんな傾斜でもキャビン内が常に水平を保つ構造となっている。

架線を有する場合も、架線が1本のみの場合と2本の場合がある。2本の場合、1本が電源供給用で、他の1本は通信用である。

車両の点検・整備のため、両終端駅構内の線路はピット構造となっている例が多い。車両に動力はないものの、急勾配で運転されることから、ケーブルの固定装置やブレーキ装置の点検・整備には、ケーブル自体や巻上機等とともに細心の注意が払われる。

ケーブルカーの軌間は、日本では他の鉄道と直通することがないため自由に決めることもできるが、枕木などの汎用品の利用で有利なことが多いため、JRなどと同じ1,067 mm軌間を採用しているものが多い。なお、世界では他の鉄道と直通する例としてイタリアトリエステ市トラムがあり、急勾配区間においてケーブルカーを補機として登坂している。
乗務員

交走式ケーブルカーの車両に乗務している乗務員は必ず前方に乗務している。そのうえ、乗務員がいる箇所には、一見自動車のハンドルのような円形や、クランク状のハンドルがあることも多い。このため、よく「運転士」と勘違いされるが、実際には「車掌」が前方確認のために前方に乗務しているものであり、「運転士」は山上側の駅にある運転室に詰めていて巻上装置を操作している。円形やクランク状をしたハンドルはブレーキ(留置中の転動防止用の手ブレーキで、線路内に倒木等の障害が発生した際の緊急停止用にも使用する)であり、自動車のサイドブレーキに該当する。ブレーキを空気圧、または油圧作動とした場合は、ハンドルに代えて小型の非常コックやペダルが乗務員席に配置される。ブレーキとしては他にケーブル切断または弛緩、過速度を検知して自動的に作動する非常ブレーキ機構を備えており、急斜面で暴走しても停止できるように楔状の制動子でレールをはさみ込む等の方式を取っている。乗務員席には他に運転所と連絡するための通信送受話器や照明スイッチ類、ブレーキに空気圧や油圧を用いる場合は空気圧計・油圧計、放送機器等が備えられている。
インクライン


1940年(昭和15年)頃の蹴上インクライン馬路村のインクライン(2014年)

「ケーブルカー」の呼称は通常旅客営業を目的とする鋼索鉄道に対して用いられるが、産業用に建設された(貨物用の)鋼索鉄道を、通常インクライン(英語: Incline、傾斜鉄道)と称する。山岳地帯での材木の輸送、ダム工事現場での資機材の輸送などに多用される。

日本国内に現存する恒久施設としては黒部トンネル端部と黒部川第四発電所を結ぶ関西電力のインクラインや、高知県安芸郡馬路村や神奈川県愛甲郡愛川町清川村宮ヶ瀬ダムにある物などがある。日本国外では、アメリカ合衆国ペンシルベニア州南西部の都市ピッツバーグにある2本のインクラインが知られている。

日本国内において過去、最も知られた導入事例のひとつは1891年から1948年まで運用された琵琶湖疏水のインクライン(蹴上インクライン・伏見インクライン)で、高低差がある水路間で船を往来させるため、蹴上インクラインでは京都市の南禅寺船溜と蹴上間の傾斜区間に軌道を敷設し、ワイヤーで牽引される「船受枠」という台車に船を載せ昇降させた。

なお、上記の馬路村のケーブルカーやピッツバーグのデュケイン・インクライン(Duquesne Incline)およびモノンガヘイラ・インクライン(Monongahela Incline)のように、産業用に建設されたインクラインを旅客用に転用したり、復元したりしたケースで「インクライン」の呼称がそのまま使用されることがある。またインクラインは単線式や循環式が多いが、黒部川第四発電所のインクラインは一般的な旅客用ケーブルカーと同じ交走式で、客室キャビンが着脱式になっており、客室キャビンを取り外すと巨大な荷台が現れて大きな貨物の輸送ができるようになっている。
歴史詳細は「ライスツーク」を参照

16世紀初頭には既にオーストリアザルツブルクライスツークで木製のレールを利用したケーブルカーが運行されていた記録がある[3][4][5]

19世紀前半にはイギリスの各地の鉱山では既に定置式蒸気機関を使用して鉱石や石炭の搬出に使用されており、1825年に開業したストックトン・アンド・ダーリントン鉄道でも路線の大部分は定置式蒸気機関でロープを巻き上げていた[6]。1869年7月2日にニューオーリンズP・G・T・ボーリガードによって発明された頭上の循環するロープを掴んだり離したりすることで推進するケーブルカーが実演された[7]。彼は1869年11月30日に特許を取得した[8]1880年、イタリア・ヴェスヴィオ山の登山鉄道「ヴェズヴィアナ鋼索線」が開通(1984年に廃線)。

現存する世界最古のケーブルカーは、サンフランシスコで1873年に建設されたケーブルカーである[1]。急坂の多いサンフランシスコにおいて、技術者アンドリュー・スミス・ハレディーが馬車に代わる輸送機関として考案し、建設した[1]。その後、急坂のある地域以外でも路面電車に相当する公共交通機関として全米、さらには米国外の主要都市に建設された[1]。また、山岳における公共交通機関としても建設が進められていった。
日本東武日光鋼索鉄道線馬返駅(1966年)

日本では1918年に開業した生駒鋼索鉄道(現在の近鉄生駒鋼索線)が最初のものである[注釈 1]大正時代末期から昭和時代初期にかけてロープウェイとともに全国各地に建設された。しかし昭和恐慌による観光需要の激減により新規建設は途絶え、さらに第二次世界大戦末期の戦局悪化により、もともと観光を目的としたものであったケーブルカー路線は大半が不要不急線に指定され、休止に追い込まれた。生き残ったものは山上にも町があり、観光以外の需要があるものだけだった。

戦後、1950年代頃から生活水準の回復・向上に伴い、観光需要が増加してきたため、不要不急線として休止されていた路線が復活したり、新規に路線が建設されたりした。しかし1970年代以降は、どのような地形でも建設できるうえに、土地買収が少なくて済み、環境破壊も少ないロープウェイが、新しく建設される登山用交通機関の主役となり、かつ国内観光需要が頭打ちとなったこともあり、ケーブルカーの新規建設は止まった。平成に入ると、モータリゼーションの進行(多くのケーブルカー路線は並行する観光登山道路がある)や国内観光需要の低下・観光スタイルが変化してきたこと(以前多かった寺社観光が減少したため、山上の寺社参拝のための路線が影響を受けている例など)などから利用客が減少するようになった。また、ロープウェイと異なり、現在は日本ではケーブルカーの量産や新規設計は行われていないために、古い設備の更新には多大の資金が必要であることもあり、外国から設備を輸入して更新した例もあるが、逆に資金負担に耐えられずに路線が廃止されたところもある。

かつては、旅館内に敷設されたケーブルカーの一部にも地方鉄道法に基づく正式な鉄道扱いのものがあったが、現在では長大なエレベーターエスカレーターが設置可能になったこともあり、すべて廃止されている。鉄道扱いでないものは今でも各地に現存しているが、それも次第に傾斜地用のモノレールスロープカー)で置換される傾向にある。
新交通システムとして成田空港第2ターミナルシャトルシステム(水平エレベーターバーミンガム空港連絡線エアレール・リンクスカイレール

1873年にサンフランシスコでアンドリュー・スミス・ハリディ(英語版)によって馬車鉄道の代替として開発され[1]、19世紀末から20世紀初頭の都市交通機関としてアメリカ合衆国で使用された。当時はまだ路面電車に使用されるような小型高出力の電動機がまだ充分ではなかったのでパワーステーションと呼ばれる据え置き式の(蒸気機関で作動する)巻き上げ機を使用するケーブルカーが有効だったという背景がある[1][11]。高性能の路面電車の普及によりそれらの都市交通としてのケーブルカーは大半が20世紀初頭に運行を終えている[1]


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