ケンタッキー州
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ケンタッキー州(ケンタッキーしゅう、: Commonwealth of Kentucky)は、アメリカ合衆国中東部にあるコモンウェルス)。州都フランクフォートで、最大都市ルイビルである。アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では第37位、人口では第26位である。元はバージニア州の一部だったが、1792年にアメリカ合衆国15番目の州に昇格した。

他の主要な都市レキシントンがある。またオハイオ州の大都市、シンシナティの大都市圏の一部はケンタッキー州北部にまたがっており、北ケンタッキー地域と呼ばれる。

家庭で話される言語(ケンタッキー州) 2010[2]

英語  95.44%
スペイン語  2.39%

人種構成(ケンタッキー州) 2010

白人  86.3%
黒人  7.8%
ヒスパニック  3.1%
アジア系  1.1%
インディアン  0.2%
混血  1.7%

州名の由来[ソースを編集]

州名「ケンタッキー」の由来は定かでないが、同州に先住するチェロキー族インディアンの「暗い血まみれの大地」、またはイロコイ族のイロコイ諸語で「平原」を指す言葉であるという説などがある。同州ではもっぱら後者の解釈が支持されている。

前者の解釈では、現在ケンタッキー州となっている地域で狩猟を行っていたインディアンが、この地域を「カトーバ」あるいはそれに類似した名称で呼んでいたことは一般に認められている。ケンタッキー州ブルーブックに拠れば、チェロキー族の若き酋長ドラッギングカヌーが、先祖伝来の猟場を売却することに反対し、白人に対して「暗く血塗られた土地」を買おうとしていると警告した。

後者の解釈では、イロコイ族の言葉で、州中部のサバンナにあるバッファローの猟場を指している。イロコイ族「ハウデノソーニー」に属する者達は昔から現在のニューヨーク州ペンシルベニア州に住んでいた。彼等はオハイオ川の領域に侵入し、猟場を広く支配するために他部族を追い出した。ヨーロッパ系アメリカ人がこの地域に入ってくるずっと以前、バッファローの猟に加えて、フランス人イギリス人と毛皮を取引するためにビーバーの罠猟を行っていた[3]

ケンタッキー州は「ブルーグラスの州」というニックネームがある。これは土壌が肥沃だったので、牧草地の多くにブルーグラス(en:Poa pratensis)見られたことに基づいている。
歴史[ソースを編集]詳細は「ケンタッキー州の歴史」を参照エイブラハム・リンカーン記念館 内部に生家が復元されている

現在ケンタッキー州となっている地域では、特に水路に沿った土地や野生生物を狩猟できる領域で、遅くとも紀元前1000年から紀元後1650年ごろまで、様々なインディアンによる文化が移り変わってきた。この地域にはアメリカバイソンがうろついていた。18世紀半ばにヨーロッパ人や植民地人の探検家や開拓者が大勢で入ってきたときまでに、インディアンによる大きな定住地は無くなっていた。イロコイ族は現在のニューヨーク州を本拠にし、狩猟の場所としてオハイオ川流域の大半を支配していた。

北西からショーニー族が、南からチェロキー族が狩猟のために定期的にこの地域に一隊の者を送り込んでいた。多くの開拓者が入ってくるようになると、インディアンは開拓者達が自分の昔からの狩猟場に入り込んでいると考えたために、戦争が持ち上がった[4]。今日、ケンタッキー州にいる南部チェロキー族は州政府が認定した部族だが、連邦政府が認定したチェロキー族の3部族は、州政府の認めた部族が「チェロキー族」だと主張することの信憑性を声高に難じている[5]

アメリカ合衆国政府が1790年に作成した報告書に拠れば、アメリカ独立戦争の終戦後、ケンタッキー州でインディアンの襲撃により、1,500人の開拓者が殺されたとされていた[6]。そのような州内への襲撃を止めさせるために、1786年、ジョージ・ロジャース・クラークが徴募した1,200名の兵士を率いて遠征を行い、ウォバッシュ川沿いのショーニー族の集落に向かった。これが北西インディアン戦争と呼ばれるものの最初期の動きになった[7]

アメリカ独立戦争後、バージニア州の中でアパラチア山脈の向こう側にある郡部は、ケンタッキー郡と呼ばれるようになった[8]。ケンタッキー郡の住人はバージニア州からの分離を請願した。1784年から1792年の間にダンビルの憲法広場庁舎で10回の憲法制定会議が開催された。1790年、ケンタッキーの代議員団がバージニア州の分離条件を受入れ、1792年4月の最終会議で州憲法案が起草された。同年6月1日、ケンタッキーが合衆国15番目の州に昇格した。バージニア出身の退役士官アイザック・シェルビーが初代州知事に選出された[9]ルイビル市にあるアメリカ合衆国海兵隊病院、ワシントン記念塔の設計を担当した建築家ロバート・モリスが設計、南北戦争前の病院として国内では保存状態の良いものとみなされている
19世紀[ソースを編集]

ケンタッキー州中央部のいわゆるブルーグラス地域は、農園所有者がタバコアサを栽培したので奴隷制度の中心地となり、また良質な家畜の産地にもなった。ケンタッキー州の奴隷所有者は、過剰になった奴隷を深南部に売り始めた。ルイビル市が奴隷市場の中心地となり、川を下って運ばれる奴隷の出発港になった。

南北戦争の時、ケンタッキー州は境界州の1つとなった[10]。ケンタッキー州はアメリカ合衆国から脱退しなかったと言われることも多いが、幾つかの郡代表がラッセルビルに集まり、それをケンタッキー州人民の会議」と呼び、1861年11月20日に脱退条例を可決した[11]。彼等はアメリカ連合国ケンタッキー州政府を樹立し、ボーリンググリーンを州都にした[12]

アメリカ連合国戦闘旗で、ケンタッキー州は中央の星で表されているが[13]、ラッセルビル会議は州民の多数派を代表していなかった。州民の多くが北軍の同調者だったので、ケンタッキー州は戦争を通じて「中立」に留まった。戦中に南軍を支持した量を超えることになった「失われた大義」の復活では、当時の人々の中にアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスの誕生日、6月3日を南軍記念日として祝い、南軍の再現に参加する者がいた[14][15]フランクフォート市にあるウィリアム・ゴーベルの彫像
20世紀[ソースを編集]

20世紀初期に、自警団の動きからブラックパッチ・タバコ戦争が起こった。タバコ産業が独占された結果として、タバコ農家は低価格でタバコ葉を売らざるを得なくなった。地元農家や活動家が結束し、タバコ会社にタバコ葉を売ることを拒んだ。

自警団組織である「ナイト・ライダーズ」が、タバコ会社の言いなりになって低価格でタバコ葉を販売した農夫を襲った。ホプキンスビルやプリンストンなどではタバコ倉庫が焼かれた。その活動の後期に入ると、ボイコットを破る農夫に暴行を加えるようになった。州知事が戒厳令を宣言し、州民兵隊を動員して、ブラックパッチ・タバコ戦争と呼ばれたこの紛争を終わらせた。

1900年1月30日、州知事ウィリアム・ゴーベルは、2人のボディガードに伴われ、フランクフォート市中心街の州会議事堂に歩いていくときに、暗殺者に撃たれて致命傷を負った。ゴーベルは1899年の知事選挙に出馬していた。その選挙では当初ウィリアム・S・テイラーが当選したと見られていた。ゴーベルの副知事候補であるJ・C・W・ベッカムとテイラーが、数か月の間、誰が合法の知事であるかについて争い、5月に出たアメリカ合衆国最高裁判所判決では、ベッカムが勝訴した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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